自立とは何か?(2014年10月18日)

~告知~

カフェ・ティグレ
カフェ・ティグレ

■ 日 時: 2014年10月18日(土) 10:00~11:30

場 所: カフェティグレ伏見店

    (名古屋市中区錦1丁目10-11、ユーキホテル1階)

     地下鉄「伏見駅」10番出口より徒歩1分

テーマ: 「自立とは何か?」

進 行: 鈴木皐月

参加費: 飲食代実費(390円~)

定 員: 15名(人数把握のため、なるべく事前の参加申込みをお願いしております。)

申込/問合せ: staff.nagoya*cafephilo.jp (*を@に要変換)

 

備考: 

① 100円程度の寄付を参加者有志からうけつけています。(強制ではありません。詳しくはこちらを)

② 当日は、参加者一同の許可を得たうえで、写真撮影(ホームページその他での報告のため)と、対話の録音(研究のため)をさせて頂いております。

 

《ご案内》

経済的自立、精神的自立など、「自立」を煽る言葉を最近よく耳にしますが、そもそも自立とはどういう状態のことを指すのでしょうか?それは本当によいことなのでしょうか?何にとって、どんな意味で「よい」のでしょうか?「よき自立」の必要条件があるとしたらそれはどういうものでしょう?みなさんとの対話から考えてみたいと思います。

初めての方も歓迎です。お気軽にご参加ください。

《お願い》

  1. よろしければ、当日の対話で議論してみたい論点や質問してみたい疑問などの提案がありましたら、下記フォーラムにお書き込みください。匿名にして、当日の配布資料にさせて頂いたり、進行の参考にさせて頂くかもしれません。
  2. カフェ参加者によるレビューを募集しています。応募いただいたレビューは次回参加者に配布するほか、本HP上(下記)やカフェフィロブログに掲載させていただくことがあります。詳しくは「お問合せ」にてお尋ねください。

~フォーラム~

以下の掲示板は次のようにご利用ください。

 

《開催前》

よろしければ、当日の対話で議論してみたい論点や質問してみたい疑問などの提案がありましたら、こちらにお書き込みください。匿名にして当日の配布資料にさせて頂いたり、進行の参考にさせて頂くかもしれません。

 

《開催後》

カフェの最中に言い足りなかったこと、言い損ねたこと、カフェが終わった後から思ったこと、など。もしありましたら、気楽にお書き込み下さい。

 

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コメント: 4 (ディスカッションは終了しました。)
  • #1

    落合だいもん (水曜日, 08 10月 2014 20:41)

    参加したいのですが勤務の都合上どうしても都合がつかなかったので、フォーラムで自立について考えるところを述べてみたいと思います。

    自立について、一般的な自立で浮かぶのは一人暮らしだと思います。ここには経済的、精神的、生活するという知恵や要領などをふくめてじりつしているものと考えられます。
    端的に擁護者なく依存対象なく生活できれば自立なのでは? と考えます。となると良き自立、あるいは自立の価値の話になると思います。

    そこでキーワードに持ってきたいのが選択と対話、です。
    家庭を持っていてもアル中では自立してるかは疑問です。でもお酒が好きでバーに通うならちょい悪おやじです。
    この違いが選択と対話に通じます。選択は依存のようにそれしか選べない、のではなく他も選べるよ、ということ。親の言いなりに就職するのも自立とは言いにくい。でも親のアドバイスに納得して就職するなら選択でしょう。その意味で、強制にただ従うのも選択にはならないでしょう。
    場面に限定することもできるかもしれません。
    上司に仕事を言いつけられて、ただ従うのも自立とは言い難い。考え、他の提案や効率のいい作業を考えたり、納得して仕事にあたるなら自立した考えのもとに動いたといえるでしょう。あるいは一人前だなと認めてもらえるかもしれません。他者の評価による自立、という視点を導入すれば。

    その自立に際して必要になってくるのが対話です。コミュニケーションとしての会話ではなく、自分の考えを相手とその会話において対等に交えることです。そこには自身と相手を同じ立場としてみる姿勢があります。教えてもらうだけではなく、指示されるだけではない。友人との会話ではなく、友人との対話ができれば自立した関係といえます。この関係には会話を通じて自分の行動を決め、その結果を引き受けるための責任を認めるところまでを含めるといえます。
    自身の行動に責任を持つ(結果を引き受ける)ための行動を選択することが自立なのではないでしょうか。
    障害者のサービスにおいてもいえます。生活援助やデイサービスは人の手を借りているように見えますが、選択し対価を負担することでそれは自立とみなされます。

    自立の価値についていえば、上記の対話による行動、選択と責任から能動的に生活を作っていくことが、さらに友人やヘルパー、職場や仕事によって他者に自身を対等にみてもらうことに価値がうまれます。対等になる、ということは影響を与え合う、ということです。そこには成長の可能性があります。自立による成長は与えられ施される成長とくらべて、相互に成長し合う関係の形成にあります。
    過剰な言い方をすれば、教師は生徒に教える立場ですが、教師が生徒に教えることでやりがいや工夫といった努力がないのであれば、精神的に成長がなくその教師は教育という方法に対して自立しているとは言えません。
    生徒と対話することで自身の教育に対して選択肢が生まれていきます。

    自立とは対等な関係から成長しあえること。それは生活全般の経済的なものからその局面(ケース)において限定的に見出されることもあるということになります。
    むしろ自立しているということは他者を、同時に他者から対等に一個人として認め合うことなのではないかと思います。


  • #2

    山方 (木曜日, 16 10月 2014 04:18)

    落合だいもんさんの投稿を読んで、「選択」と「対話」を挙げられているのを観て唸りました。「選択」は障害者や高齢者の「自立」を考える点で全く賛成です。ADL(生活日常動作)の身辺自立については、原則として自分の意思で決定できるということが介助や介護を得ての自立。「対話」的関係とか教育とか耳が痛い話ですが、共依存関係やパターナリズムのような関係が蔓延している状況のなかで、大切な価値観だなと思いました。
     私は18日参加する予定なので、自分の関心のあるところを羅列させていただきます。「自立」という言葉で最近気になるのは「自立支援」という言葉です。障害者自立支援法とか生活困窮者自立支援あるいは青年・若者の自立支援と言う言葉がよく聞かれます。市民運動側の方々が使われている理念としての「自立支援」と政府側の「自立支援」では意味が違う気がします。後者はどうしても、財政支出・負担を減らすという趣旨で生活保護支給費の見直しとか受益者負担とか、「もっと強くなれ!逞しくなれ!」とみもふたもない話になりがちです。〇〇自立支援と称して、新しい公共などNPOと言いながら、福祉国家から市場原理主義へ、自己選択・自己責任として個人が多くを抱えこまさせる方便ではないかと。
    そこで「自立」(市場)と「依存」(社会保障)という二項対立より、「自立」と「支え合い」とか「自給自足的自立」から「関係やネットワークの中での自立」とか、個人と社会なり周りの人間関係とか浸透している「自立」、「HELP!」と助けを求めやすい、自分の弱さを出しやすい「自立」、迷惑をかけあう自立が、現実の自立であり、それでよいのではないかと思います。
    消費活動や消費契約も関係であり対等性もありますが、それだけでは「自立」できなくなる人が出てしまう。
    自立している人間として「ロボット」的人間像を想定してみます。エネルギー源とプログラムを与えると「自立型行動」ができるかもしれない。しかし、これは人間の自立ではない。人間は、生まれてから哺育、保育、子育てを通して成長し、経済的、精神的、身辺自立(生活自立)をしつつ、やがて高齢になれば、今までできたことが出来なくなり、身辺自立も経済的自立も困難になり、精神的自立も困難になる。ロボット(人工知能)と人間の関係はよりシリアスになっているかもしれませんが、粗雑に言えば、ロボットは閉鎖的な自己完結的な仕組みですが、人間は情報もエネルギー源も新陳代謝も、流入と流出も自己自身も分子レベルで入れ替わるほど動きや流れがあるなかで「自立」を保っている存在です。「自立」といっても、関係やネットワークを前提とした自立。むしろ関係やネットワークが豊かな人間は、困りごとがあっても支えられやすく自立は容易で、人間関係が少ない、孤立しがちな生活であれば自立は困難となる。自立を煽りがちな世情ですが、もっと他人と支え合う、助け合う関係づくりがあっての自立かなと、どんどん年齢を重ね高齢者に近づき危機意識を持っている側として思うことです。

  • #3

    山方 (金曜日, 17 10月 2014 05:20)

    前回意見を書いてしまったので論点を列挙します。
    自立とは「他の助けや支配なしに自分一人の力だけで物事を行うこと」としてからの問い直したいことです。
    <経済的自立の問い直し>
    ①失業者②ニート③フリーター④アルバイト⑤専業主婦⑥派遣労働者⑦生活保護受給者⑧自営業者とサラリーマン⑨パラサイトシングル⑩子ども⑪ブラック企業で労働基準法違反の働きか方をしている労働者
    <働き方との関連>経済的自立から脱線した、社会的な自立に近いテーマ
    ①専門職と非専門職(高度な知識・スキル・倫理が求められ、自律的・自立的に仕事をすることが求められる仕事とそうでない仕事)②外部不経済(自動車を生産することで「自立」と言えるか。自動車の社会的費用は他者に負担させていると言えないか。②社会的分業が進むなか、細分化・専門化した仕事の意味や目的が解りにくくなっている。データの打ち込み作業など。
    <精神的自立を問い直す>
    ①未成年者(さらに乳幼児・小学生・中高生・若者と区分)②認知症(成年後見)③知的障害者④精神障害者⑤心神喪失状態⑥道徳教育(躾け)⑦親戚・家族・家族・嫁姑舅のしがらみ⑧家事を妻に押しつけた男(夫)のADL⑨宗教的、政治的、文化的カリスマに帰依している人⑩文化的・社会的に拘束されていること(成人の定義、18歳選挙権、家族からの「独立」)⑪依存症(ゲーム、アルコール、スマホ、ワーカーホリック⑫良い依存と悪い依存の境界線(ペット、親子、夫婦、恋人、学歴、名誉、外見(化粧、美肌、エイジズム)、ギャンブルなど)
    <生活面の自立の問い直し>
    ①乳幼児②生活介助が必要な全身性障害者③生活介助が必要な高齢者④妻に家事を任せきっている男⑤家事がサービス産業によって代行されている場合⑥サービス産業に依存している都市型生活者
    <そもそも論として>
    ①自立とは何か②自立は良いことか(メリットとデメリット)③弱い自立と強い自立④良い自立と悪い自立⑤非自立を目指していることが文明や科学の進歩か⑥自立度を巡って覇権を追求しているのが現実の受験学歴社会である競争社会を生んでいないか⑦自立は必要か⑧自立したがらない人、自立したくない欲求はあるか⑨「自立支援」政策は国家が個人に自立を迫る矛盾・自己撞着ではないか⑩自立の強調は「支え合い」「相互扶助」といった社会的連帯を破壊しないか⑪「自立」は人間の万能感の裏返しではないか。人間は自立できるはずがない。人間も生態系(エコシステム)の一部である。地球環境が悪化すれば人間も生きていけない⑫孤立・孤独・人間関係の希薄化・無縁死などとの関係は⑬「個人」も強い個人・弱い個人など文化的違いがあるのでは⑭政治的自立(スコットランドの独立、香港の自治、文化的差異の尊重)の主張はぶつかるが調整できるのか⑮人間に「選択」できる能力(自由意思)はあるのか。⑯究極の自立は神か永久機関つきのロボットではないか⑰ルンバは自立しているか⑱小惑星探査機はやぶさを観て、多くの人は自立しているかのような擬人感情を持ったが機械も自立しているのか⑲野生生物、自生植物は自立しているといえるか
    以上、考えて浮かんだことを羅列です。長文失礼。

  • #4

    落合 だいもん (金曜日, 17 10月 2014 10:40)

    山方さん
    お返事ありがとうございます(・ω・)ノ
    山方さんのご意見はいろんな視点から自立を考えられててすごいなーって思いました。政局やらロボットやら、いわれてみたら人外にも自立があてはまるかも……と読んで驚いてます。

    山方さんも指摘されてますが、ロボットを想定すると自己完結といういう意味での自立はしてると思います。でも成長や他者との関連を含めると自立してるとは言いにくい。これはルンバに限らず扇風機でも宇宙船でも、あらゆるマシンは機能と役割が合致してるので、壊れてなければ自立稼働しているんだと思います。ルンバは電源供給に自分で走っていくけれど、扇風機はそれを求められてないだけ。ルンバは機能としてそれが組み込まれてるだけで、コンセントに電力が来てなければそのまま永眠するでしょう。なので、ロボットを含む機械たちは、機能内と限定した形式で、常に自立するように作られてます。逆に言えば、自立してないマシンはありません。なので自立はしてるのが前提です。あえて言うならルンバは自動でオンオフするので自律型、かもしれません。
    これを踏まえたうえで、神や永久機関や動物もそうです。存在に自立を内包しているので、自立してなければ神じゃない、自立してなければ生き抜けない動物は、自立しない余地がない。自立していく選択と自立してたりしてなかったりという曖昧さが自立の価値を生むのでは。「生きにくい世の中」に相対的に表れる「自立の価値」があるかもしれません。なんにしても、自立を僕は人間にのみ適応する考えです。


    共生を軸に自立を考えた山方さんのご意見には完全に同意です。HELP!といえることが自立の最初の一歩で、お互いに問題をシェアしていく関係も自立
    的であって、もっと言うと自立はやはり他者と対等な関係に立つ、という関係性のなかで発揮されるものだと思います。
    じゃあロビンソンクルーソーは? となりますが、まあ潜在的に自立できます。たくましいもの。

    自立支援法については山方さんの述べられたご指摘等々をうけて、現行法は障害者総合支援法に名前が変わり、2011年から施行されました。とはいえ目的は自立支援です。新しく変わって地域共生の色を濃くしたのが特徴です。また定率負担(利用金額に応じてお金を払う、医療保険みたいな感じから)応能負担(世帯の所得によって負担金額が決まる)に変更されたのも、それぞれの個人に見合った自立の形を選択してね、ということだと思います。

    他者との関係を導入し、経済、精神、肉体、社会、生活など、場面ごとに自立があるのかもしれませんね。。そうするとじりつの強弱もどの分野の自立をいくつクリアしているか、という尺度を持てるやもしれません。

    自立が良いことか、についても考えました。僕はこれまでの共生や対話、選択する意志を含めて良いことだと思います。なぜなら他者と自身の可能性をより探れるから。高める、とはいいません。与えられても伸びるからです。引き出しあえる関係になること、それは対等な相手を見つける、仲間を見つけるということです。困難なこと、それが哲学的であれ具体的なプロジェクトであれ、最終的に個人に帰ることがあったとしても仲間を見つけるにはその場面において自立する必要があると思います。

    デメリットは、そこで満足して停滞する恐れがあるということ。停滞は時間経過とともに衰退となります。ゆえにできることができなくなっていく中での動揺にさらされると自立もできなくなる、すなわち自立が再びできなくなると、自己評価が落ちるということです。

    山方さんもみなさんも、カフェ楽しんでくださいねー!(・ω・)ノシ