環境は誰のものか?(2014年11月22日)

~告知~

カフェ・ティグレ
カフェ・ティグレ

■ 日 時: 2014年11月22日(土) 10:00~11:30

場 所: カフェティグレ伏見店

    (名古屋市中区錦1丁目10-11、ユーキホテル1階)

     地下鉄「伏見駅」10番出口より徒歩1分

テーマ: 「環境は誰のものか?」

進 行: 奥田太郎

参加費: 飲食代実費(390円~)

定 員: 14名

申 込: 不要 (ですが、人数把握のため、事前に参加のご意志がある場合はなるべく参加申込みをお願いしております。)

 

備考: 

① 100円程度の寄付を参加者有志からうけつけています。(強制ではありません。詳しくはこちらを)

② 当日は、参加者皆さまのご許可をいただいて写真撮影(ホームページその他での報告のため)と対話の録音(研究のため)をさせて頂いております。。

 

《ご案内》

私たちは、衣食住に必要なあらゆる資源を環境から得ています。環境は実に多くの恵みを私たちに与えてくれますが、果して私たちは環境を、有益な資源を与えてくれるモノとして扱ってもよいのでしょうか。現在、環境は、あたかも私たちの所有物であるかのように扱われています。しかし、他方で、同じ環境を利用する他の生物も多く存在するなか、どうして人間だけが環境を自由に所有・利用してよいと言えるのでしょうか。今回の哲学カフェでは、「環境は誰のものか」という問いについて、みなさんと一緒に考えたいと思います。

《お願い》

  1. よろしければ、当日の対話で議論してみたい論点や質問してみたい疑問などの提案がありましたら、下記フォーラムにお書き込みください。匿名にして、当日の配布資料にさせて頂いたり、進行の参考にさせて頂くかもしれません。
  2. カフェ参加者によるレビューを募集しています。応募いただいたレビューは次回参加者に配布するほか、本HP上(下記)やカフェフィロブログに掲載させていただくことがあります。詳しくは「お問合せ」にてお尋ねください。
     
     

 *当日13時30分より、南山大学そばで、公開シンポジウム

 

「環境と経済を両立させるのは誰か

―環境問題の起源と持続可能な発展の担い手」

http://www.ic.nanzan-u.ac.jp/ISE/news/141027.html

(予約不要・参加無料)

 

が開催されます。哲学カフェ終了後、カフェティグレでランチをとってから、ちょっとだけアカデミックなイベントに参加してみませんか?移動は哲学カフェ@名古屋のスタッフが誘導させていただきます。秋深まる神無月に、環境についてじっくり思いを巡らせるのも一興です。

~記録~

哲学カフェの様子

公開シンポジウムの様子

配布資料
環境は誰のものか(20141122).pdf
PDFファイル 473.0 KB
対話レビュー
進行役による対話のレビュー
レビュー:環境は誰のものか(20141122).pdf
PDFファイル 577.8 KB

facebook報告

報告です。11/22(土)に「環境は誰のものか?」と題する哲学カフェを行ないました。参加者は進行役の奥田太郎さんを除いて13名と、ティグレではちょうどよい人数でした。ここ数回、名古屋ではフォーラムでの事前投稿を資料として配布し、最初に...

Posted by 哲学カフェ@名古屋 on 2014年11月25日

~フォーラム~

以下の掲示板は次のようにご利用ください。

 

《開催前》

よろしければ、当日の対話で議論してみたい論点や質問してみたい疑問などの提案がありましたら、こちらにお書き込みください。匿名にして当日の配布資料にさせて頂いたり、進行の参考にさせて頂くかもしれません。

 

《開催後》

カフェの最中に言い足りなかったこと、言い損ねたこと、カフェが終わった後から思ったこと、など。もしありましたら、気楽にお書き込み下さい。

 

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コメント: 5 (ディスカッションは終了しました。)
  • #1

    山方 (月曜日, 03 11月 2014 22:03)

    「ご案内」を読んで、文書が個人的に解りにくかったので、解題をしてみました。解りにくいのは、
    ①他の動物と異なり「自由に」と
    は、どういう意味か?
    ②環境とは何か?
    ③モノとは何か?
    ④よい、とは何か?誰がよい、とするのか?
    ⑤私たち、人間とは何か?
    です。
    喫茶店でここまで書いたら、会計だそうです。一人哲学カフェはダメですね。

  • #2

    山方 (月曜日, 03 11月 2014 23:16)

    ①の「自由」については、当初他の動植物は自由意思がない、すなわち本能で動くか環境に従属し「環境に決定される」存在することに対して、人間は自由意思があり、自然環境の因果系列から逸脱した存在であるという意味と解釈していました。テーマが「環境は誰のモノか」という問いであることが、少し飛躍していたのが気になっていたので、提題の真意を憶測しなくてはなりません。物を物質・物的対象ではなくて経済的意味でのモノして、誰のモノかと所有権者を問うとストレートに解釈してみると、一つは国家からの経済的自由もありますが、それよりも、近代刑法の自由の方がよりよいように思いました。
    身近な例でいいますと、私は高校生に、「どうして高校生が喫煙をしてはダメで、先生はいいのか?」と質問されたら、次のように答えています。「自由といっても、何でも自由なのではない。①判断能力があり②自分を傷つけたり他人を傷つけない限り、自由にしてよい。そして大人にだけ③自分を傷つけたり損害を与えると解ってている愚かなことが出来る愚行権がある。子どもは①判断能力が未熟である。だから自分を傷つける愚行権がなく保護の対象となる。喫煙は身体に悪い。大人は喫煙をして健康を害しても自己責任だが、子どもには責任をおわせられず保護の対象となる」。これが近代刑法の原則なのか、怪しいかもしれませんが、そう教えています。
    「どうして人間だけが環境を自由に所有・利用してよいと言えるか」というテーマをここまで補助線を引いて、強引に答えるならば、「人間だけが①判断能力があり、②他者(=人間だけ)に危害を与えない限りにおいて、③人間のモノである環境を、④人間にとって健康に悪いと解っていても、自由に(環境を利用)することができる、からであるという前提があるから」です。ゆえに「環境は誰のモノか?」という問いには当然ですが、この前提では「人間」のモノとしか考えていないからということが言えると思います。
    そして④について、他者に人間以外の動物・植物が入っていないことが前提にあります。物言わぬ動植物は①の判断能力がなく、そもそも人間と同列に並ぶ他者ではないと想定されているのはないか。④の誰がよいとするかは、人間だけしかよい、いけない、良い、悪いの意思表示ができるとされています。
    なぜそうなるのか、これは前回のテーマ「自立」とも関係するかと思います。⑤の人間とは何かという問いにも関わります。それは「私たち」=人間という種で「自立」しているかのような錯覚、誤解、あるいは人間を「万物の霊長類」として「自由意思のある」「判断能力のある」別格的存在という傲慢さがあるのではないかということが考えられます。
    ですから、可能性としては、以下の主張や倫理も成り立つ可能性があります。
    私たちはバクテリアや微生物から植物、他の動物が作り上げる生物圏のみならず、岩石や大地や海や空とが作り上げる自然をも含めた生態系・エコシステムのとして存在しているとするならば、私の境界線は私の皮膚ではありません。私とは動植物や自然環境とつながり、そのつながりの先まで含めたものが大きな「私、自己」のようなものとも考えられます。また人間が傷つけてはいけない他者の一に動物が来ることも考えられます。すると人間の自由を制約する条件として、動植物を傷つけてまで自由に振るまってはいけないと言えるのではないかと思いました。奇妙な倫理ですけれど、成り立つかもしれません。
    これは先ほどの問いに対する、勝手な回答案ではあります。
    長文失礼。

  • #3

    yamagata (土曜日, 08 11月 2014 05:26)

    南山大学の「環境と経済の両立」も哲学カフェのテーマが環境なのも、持続可能な開発のための教育(ESD)の10年の最終会合が11月、日本(岡山と愛知・名古屋)で行われることにあわせたものと思われます。私もESDと10年以上関わった当事者として期待をして失望した側として一家言ないわけではありません。ESD関連事業として、環境倫理の泰斗・加藤尚武先御大や内山節氏など哲学者が招かれたシンポジウムも新聞に掲載されていました。ESD=環境となることじたいがおかしいのですが。哲学界のスターも出演しているのですが、「ミネルバの梟は黄昏に飛ぶ」の倣いとして「ESD」なり「持続可能」の言葉が踊る宴の後に、このプラチックワードを問い直すのが哲学の努めなり役割ではないかと思います。
    今回も問いを列挙してみます。
    ①畢竟「私」のものではないのか?私が死んでしまえば意味がない。いま・ここを生きる私にとって関心があり、関わっているものが環境ではないのか。
    ②「誰のものでもない(無主)」ではないか。所有権とか設定するのは、人間の勝手な振る舞いではないのか。結論として、誰が自由に使ってもよいのではないか。
    ③誰のモノでもないならば、地球温暖化、酸性雨、PM2.5、オゾン層の破壊などは、一部の国がCO2やNOx硫黄酸化物などを制限しても、他国が大量に排出し続けていては改善できないことから、環境を勝手に所有物として自由に使ってはいけないのではないか。
    ④「自分ものだ」と最初に言い出し、押しつけ、既成事実しているのではないか。アメリカ大陸を「無主の土地」として、マニフェスト・ディスティ二ィとして先住民から土地を奪ったキリスト教徒も蝦夷を征討した大和政権のように。
    ⑤国家のものではないか。南極を除けば、国家の領域であり、主権や統治権があり、環境をどのように扱うかは国家に最終的な権限があるのだから。
    ⑥国も含め地主のものではないか。資本主義社会では、土地は私有財産であり、その売買、使用は地主の財産権権として不可侵である。
    ⑦民族のものではないか。ある種のナショナリズムによれば、過去から未来永劫まで民族の土地として与えられ持ち続けるものであり、国家は民族のものでもあるからだ。日本の山川の景観や四季でさえ、民族精神の表れだから。
    ⑧君主のものではないか。地主の中の地主、国家の権威と権力掌握者だ。
    ⑨神のものではないか。環境そのものが「神」ではないか。八百万の神は自然だ。
    ⑩神のものではないか。世界は神が作り人間も神が作ったのだから。しかし、神の意志ならば人間(特定の信仰者)が自由にしてもよい。
    ⑪ご先祖さまのものではないか。環境は先祖が作ったもので、私たちはそれを受け取っ贈りものである。勝手に自由には使えない。
    ⑫将来世代のものではないか。将来世代のために利用制限や環境の維持保持に責任があるので、環境を自由に使ってよいはずがない。
    ⑬私たち人間の現在世代全体の共有地(コモンズ)ではないか。だから、大切にすべきではないか。捕鯨禁止もワシントン条約はそのルールだ。
    ⑭共有地ではないか。⑬の主張もあるが、現在の世界を見ている限り、共有地であるからと、利己的な使い方をしてよい。
    ⑮軍事力、経済力などパワーがある者の物である。サンゴ礁が欲しければ取りにいくだけであり、妨害するものがあれば、争って勝ったものの物である。
    ⑯少なくとも今までは男性のものであったではないか。男性の都合のよいように環境をデザインし改変してきた。
    ⑰健常者のものであったではないか。障害者の使い勝手が悪くてもよい健常者(健全者)の都合がよく段差や高層化などデザインされてきたから。
    ⑱主流民族のものではないか。土地や環境をどう利用するかは主流民族が決定している。
    ⑲環境はステークホルダーのものである。⑫とにている。共有地として放置され「原野」になるわけではなく、環境にとって利害関係がある人・当事者・ステークホルダーが合意形成をして利用しなくてはいけないのではないか。
    ⑳環境は人間も含めた生命のつながりの共有物ではないか。人間が生活しているところは、あるがままの自然とも言えるし、人間の影響によって変えられた人工的な自然ともいえる。人間は必要以上は利用せず、調和的な暮らしをする。
    ㉑環境はサルやクマのものではないか。「人里にクマ(サル)が下りてきて、人間が死傷したとか、農作物が荒らされた」というのは、人間中心主義的見方である。クマがサルの生活圏の中へ人間が進出し、クマやサルの食べ物や飲み水を荒らしており、クマやサルから見れば、人間が害獣である。
    ㉒環境は「生命」のものではないか。個々の人間は手段であって、環境は生命が生き続けるために、長い時間をかけて、地球と生命が作り上げてきたものである。
    ㉓環境について議論することじたいが無効ではないか。環境保護は、人間のエゴに過ぎないのではないか。環境は「破壊」されようが、地球も他の生命も生き残り続けるだろうし、仮に生命が滅だんとしても問題ではない。
    ㉔環境について議論することじたいが無駄ではないか。人類が生き延びようとしても、太陽が膨張して地球を飲み込み、銀河系も他の銀河系に衝突したりブラックホールに飲まれて寿命が尽きる。執着しても仕方が無い。
    ㉕環境が人間より上位であり、人間は下位であり、環境は誰のものかという問い自体が発想が逆立ちをしていないか。
    ㉖人類は環境を汚染し破壊をしているガンのような存在だから、人類が滅びるならば滅びるにまかせればよいのではないか。それでも他の生命は生き続けるのだから。

    ESDや持続可能を問い直す企画はいずれしたいですね。

  • #4

    山方 (土曜日, 15 11月 2014 03:51)

    「環境は誰のものか」という問いに対して、素朴に前提していることを列挙しましたが、<ご案内>に書かれているような、問いに対する一問一答ではなくて、テーマそのものを遡って立て直したい問いを挙げてみます。
    ①環境は「モノ」か。「モノ」とは何か?可視化できるもの?形があるもの?場所を占有するもの?素材のようなもの?なのか?
    ②<ご案内>では、環境は恵みを与えてくれるもの、有益な資源という部分に焦点をあてているのは何故か?東日本大震災の地震・津波、御嶽山の噴火など災いをもたらし、恐竜をはじめ生物種を絶滅させる面を看過するのは何故か。重金属類あるいは「紫外線」など「環境」には有害なものも溢れている。やはりなぜ看過して、環境を有益な資源として利用という側面に前のめりになるのか?無害無益な環境の余地はないのか?
    ③なぜ「所有」を真っ先に考えがちなのだろうか?「利用」「使用」「影響」を後回しか、付随するものとして考えるのだろうか?
    ④環境を所有する、利用する「権利」ばかり考えがちなのは何故か?環境を利用することへの「責任」、所有することの「責任」、所有者・利用者の「義務」が後回しなのは何故か?
    ⑤「環境は誰のものか」という問いの前提として、さらに「所有者が自由に利用(処理)してよい」という前提があるが、その前提がおかしいのではないか?
    ⑥「環境は〇〇のモノである」という主張や意見が対立し一致しない・調整できない場合、どうするのか?多様な意見や価値観がぶつかりあって、それぞれが正しいことを主張して平行線を辿ると、環境問題はどうやって解決すればおいのか?
    ⑦⑥と同様に「環境は誰のものか」という問いに正解が出せない場合、地球環境問題であれ、生物多様性の保持であれ解決するための方法や智恵はないのか?
    ⑥誰のモノ

  • #5

    おくだ (金曜日, 21 11月 2014 14:53)

     今回進行役を務めます、おくだです。
     山方さん、論点のご提示、ありがとうございます。いずれも重要な論点ばかりで、当日の対話の道標となりそうです。南山大学でのシンポジウムでは、もう少し話が具体的なものとなりますので、今回のカフェでは、問題の背骨に当たる哲学的な問いを共有できればと考えています。
     シンポジウムとの連動という点では、#4でご提示下さった7つの問いはすべてシンポジウムの内容と密接に関連しています。明日(当日)は、この#4の7つの問いを参照点として参加者の皆さまにお示ししつつ対話を始めたいと思っております。よろしくお願いいたします。