人生に大きな目標は必要か?(2015年4月5日)

~告知~

カフェぶーれ
カフェぶーれ

■ 日 時: 2015年4月5日(日) 11:15~13:155

場 所: 名古屋駅西 カフェぶーれ

     (名古屋市中村区椿町6-27 ホテル ル・ウエスト1階)

     名古屋駅新幹線口から西へ徒歩2分

テーマ: 人生に大きな目標は必要か?

進 行: 原有輝/三浦隆宏(カフェフィロ)

参加費: 飲食代実費(300円~)

定 員: 12名

申 込: 不要 (ですが、人数把握のため、事前に参加のご意志がある場合はなるべく参加申込みをお願いしております。)

問合せ/申込先:staff.nagoya*cafephilo.jp (*を@に要変換)

 

備 考: 

① 100円程度の寄付を参加者有志からうけつけています。(募金する/しないも金額も自由です。詳しくはこちらを)

② 当日は、参加者皆さまのご許可をいただいて写真撮影(ホームページその他での報告のため)と対話の録音(研究のため)をさせて頂いております。。

 

《ご案内》

人生に大きな目標があると、その為に頑張ろうという気力が湧いて来ますし、計画に沿ってどんな手段を取ったらよいかわかります。一方でそれは、現在を未来へ奉仕する手段としておとしめることになるのではないかとも思われます。毎日の生活の小さな目的を追うことに専念したほうがいいのか、それとも大きな目標や計画に沿って生きていったほうがいいのか、みなさんはどう思われますか。

今回は人生の生き方について、みんなで考えてみましょう。

 

《お願い》

  1. よろしければ、当日の対話で議論してみたい論点や質問してみたい疑問などの提案がありましたら、下記フォーラムにお書き込みください。匿名にして、当日の配布資料にさせて頂いたり、進行の参考にさせて頂くかもしれません。
  2. カフェ参加者によるレビューを募集しています。応募いただいたレビューは次回参加者に配布するほか、本HP上(下記フォーラム)やカフェフィロブログに掲載させていただくことがあります。詳しくは上記お問合せ先までお尋ねください。

~記録~

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報告です。昨日4月5日(日)「人生に大きな目標は必要か?」が、名古屋駅西口のカフェぶーれで開催されました。序盤は三浦隆宏さんが進行し、中盤以降は提題者の原有輝さんに進行してもらうとの共同進行で行われました。進行役初体験の原さんでした...

Posted by 哲学カフェ@名古屋 on 2015年4月5日

~フォーラム~

以下の掲示板は次のようにご利用ください。

 

《開催前》

よろしければ、当日の対話で議論してみたい論点や質問してみたい疑問などの提案がありましたら、こちらにお書き込みください。匿名にして当日の配布資料にさせて頂いたり、進行の参考にさせて頂くかもしれません。

 

《開催後》

カフェの最中に言い足りなかったこと、言い損ねたこと、カフェが終わった後から思ったこと、など。もしありましたら、気楽にお書き込み下さい。

 

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コメント: 6 (ディスカッションは終了しました。)
  • #1

    山方 (木曜日, 02 4月 2015 06:12)

    今回の「人生に大きな目標は必要か」は、少し観点は違うのですが、大変現代の時代的な課題でもあり、個人の生き方在り方の問題として常日頃感じていることです。「人生に目標を持ちたい・持たせたい・持った方がよい」という思いは建設的なのか「病」なのか?論点を挙げていきたい。

    <1>「人生に」について
    ①「目標を持つことは」一部の人にとっては必要なことなのか、多くの人に必要なことか、全ての人に必要なことなのか
    ②①については、それぞれの人生で別々に目標を持つということか
    ③①については、共通の大きな目標(グランドストーリー)のことか
    例えば、「社会主義」「人類の魂の救済」など、政治イデオロギーや宗教

    <2>「大きな目標(計画)」について
    目標とは、目ざすべき、目指される指標だがミッション(使命)とビジョン(具体的に記述できる状態)いずれの意味も含めたものとします。
    ①目標に「大きな」とありますが、目標に「大きな」と「小さな」の区別を設ける必要があるのか
    ②「ない」というのは後回しにして「ある」として
      大小の基準は何か?
    (1)期間による区分  長期間、短期間
    (2)重要度(価値)による区分
      ⅰ)誰が決めるのか(個人、親、国家、大人、宗教(団体)、英雄(カリスマ)、世間(不特定想定他者))
    (3)必要性による区分  生存(衣食住、安全など)
    (4)関係する人数による区分
       個人的・私的、家族、民族、集団、国家、人類、地球環境
    (5)ピラミッド型のような目的ー手段の序列がある区分
     大きな目標を達成するために中目標を設定し、中目標を達成するために
     小さな目標を設定する。
    (6)大きなものとは高尚・理想的なもの、小さなものは欲望や低俗的なものといった区分
    (7)大きな目標は「公共的な」あるいは利他的なもの、小さな目標は「営利」「私的」なものあるいは利己的なものという区分
    (8)その他の区分はないか
    ③目標が「ない」として
    (1)そもそも、人生には目標などないのではないか。
       無くても良いではないか。目標を設定しても無駄ではないか。
    (2)今とりあえずないが、それが何か?という立場があるのではないか
    (3)大きな目標を喪失した場合がある。これについてどう評価するのか?
      自殺したり、アノミー(精神的無秩序)が起こり精神的に不安定などハンドが大きいかもしれない。
    (4)反実仮想をしてみます。「大きな人生の目標がない」状態はどうなのだろうか?何か問題があるのか?他者を外見から評価するのは失礼だが、大きな目標を持っているという人と持っていない人とを比較したり、自分の人生で大きな目標がある時とない時とでどんな違いがあるのだろうか?
    <3>「必要」について
    ①この問いは、「必らず要る」のか「全く要らない」の相互排除的な問いか?
    ②この問いは、あると有用だが、ないよりはましといった状態も含めているのか?
    ③全くなくてよい という前提から考えてもよいのか?
    <4>「大きな目標を持つ」ことについて
    ①人をサリンガスで殺したり、革命の名の下に政敵を粛清したり、誘拐したり、殺したりする、自傷他害を起こしていると評価されるようなことを是とする目標でもよいのか?
    ②「人生の大きな目標が必要である」というのは、換言すれば「人生の大きな目標を持つべきである」という規範でもある。
    すると、およそ人生に大きな目標を持っていない状態である人間(中高生が学生、無職であれアルバイトであれ若者も含めて)に対して「欠如」という外からの評価を生み出し、中高年から「近頃の若者は」と批判されやすく、また自身も「欠如を埋めなくてはならない」といった葛藤状態を引き起こす。「大きな目標探し」あるいは「自分探し」を動機づける。
     個人や人類を成長させてきた動因でもあり、逆に人生を享受し満足させない自意識を生んだり、対立や他者の自由への介入といった暴力による不幸の源にもなる。この問いとどう向き合ったらよいのだろうか?
      
    ここまでは、今回のテーマ設定以前における「論点」でした。

    ここから下が、今回のテーマ設定に関わる「論点」です。
    ①大きな目標があると人生はどうなってしまうか
    (1)人生に意味や充実感を感じられて幸福感が増す。
    (2)目標に振り回されて、人生における楽しみを楽しめず、面白くもないつまらない生活になってしまう。
    ②「人生に大きな目標は必要である」という命題があるとして
     このフレーズ「人生には大きな目標が必要である」は、誰が誰に対して(発言者自身も含めて)、どのような立場や関係性で、何の目的で何を期待して語っているのか?
     政治的な狙いがあるとか勘ぐれるだろうか?
    ③②この命題は、現実にどのような効果を生んでいるのか?
    ④この命題の妥当性は普遍的か?
     すなわち、①人による②条件(時期、時代、環境、置かれている立場)によってリアリティあるときと無いときがあるのでは
    ⑤人生に大きな目標ができると、人生への態度や見方はどうなるのか?
    (1)生きていることに「意味」が感じられる。自己承認。レーゾンデートル(存在価値)を感じる。
    (2)世界の見え方が変わってくる。世界を分けてしまう。
     ⅰ)目標のために役立つ資源となるもの(こと)とならないもの(こと)
       過剰になると、無駄な人やことを排除する差別にもなる。
     ⅱ)目標実現のためにスケジュールを立てる。
    何時までに何をするのか、新しい時間軸が生まれる。時間の感覚が変わる。
    先駆ける。先を読む。世界に働きかけようとする。先手を打つ。
     ⅲ)人生に大きな目標を持たないことではどうなるのか?
     「いま(now)・ここ(here)」で起きていることへ集中し、味あうことがなくなる。時間の流れに身を任せる。起きたことを受容する。後手にまわって考えて対応する。
    ③同じ大きな目標を持つ同志ができる。同志のコミュニティができる。共通の目標を実現することで共感する人とつながりやすくなる。逆に言えば、同じ大きな目標を持てない人とつきなわなくなり、コミュニティから排除さえっする。
    ④目標を実現するために会社、宗教的、政治的な結社を作ろうとする。
     個人では実現できないことが、「資金」「資源」「労力」などを出し合い組織的に行動することでより実現しやすくなる。
    ⑤世界で経験することに軽重が生じる。それまで重要で有り気にしていたことが気にならなくなる。容姿・化粧・財産・学歴などが気にならなくなる。
    「人は見たいものを見て、聴きたいことを聞き、知りたいことを知るようになる。都合のよい情報ばかり集めて、不都合な情報を遮断する」ようになる。
    ⑥敵を作る。
     大きな目標に相反する目標を持つ人たちと敵対する。葛藤や紛争が起きる。衝突がおきる。妨害される。暴力行為が生まれる。
    ⑦家族をバラバラにする。
     家族や地域の友人といった集団から、大きな目標を共有した集団へ移る。
     場合によっては、家族の離反が起きる。(離婚、出家)
    ⑧社会のマネジメント化が促進される。
     効率性重視の時代になる。 目標達成のために、モノ・カネ・人・情報・時間を効率よく活用する。目標達成に役立つもの、妨害するもの、役に立たないものと序列化される。過労死が増加し、ストレスが高まる。
     
    論点を立てるというより、課題を立ててしまいました。それで良いのか悪いのか、なぜ起きるのか?というように考えていただければと思います。

    長文失礼
    目的と手段化、

    生きがいとは?
    キャリア教育
    ビジネスマインド
    経済産業省などのシチズンシップ教育
    理系重視・人文科学系の不遇  効果がみえにくいものは評価も低い

  • #2

    高橋 (木曜日, 02 4月 2015 21:56)

    若者には必要かもしれないけどもう今更と
    思考を停止していたことに
    別の思考からバッタリ出会ってしまった
    私は個人顧客と接する仕事をする上で
    「人を騙したくない」
    こんな当たり前の考えが
    実は大きな目標といえなくもないのではなかと
    思い当ってしまいました

    当然のことなのですが「相手を騙すつもりである」と話すこともない
    顧客が不利になる事と成果を上げる事が比例する時
    どちらを選ぶべきなのか
    時に成果を選ぶように暗黙の圧力が存在し
    そちらを選べば居場所を確保して安定した収入を確保できる
    方法は黙認され浅くさえ問われることはない

    仕事で小さな成果を上げる事よりも大切な事があるのでは?
    人として正しいことなのか?
    同僚の前では不用意に口に出せない危険思想であり
    軽はずみに行動すれば失業の危機に晒されてしまう
    白黒がはっきり分かれてはいない曖昧な基準
    無知な相手はつけ込めばよく
    強く出る相手の影響が広がりそうなら
    例外的な手続きをとって丸く収めればよい
    空気を読んでうまく立ち回ることを求められる中で
    相手の気持ちを考える
    薄利多売の現場では贅沢な思想なのだろうか
    複雑な契約についての知識の非対称は大きく
    嘘で相手を誤魔化す必要などない
    伝える情報の中身を吟味すれば
    ほとんどの相手は疑問すら抱かない
    小さな成功の積み重ねが
    容易に人を成長させてしまう
    そしてもちろん成功し
    組織をつくり
    常識がつくられていき
    常識を身につけれたものだけが
    組織のメンバーとして迎入れられ
    組織を守るために
    常識は上書きされていく

    自分の生活基盤を失いかねない問いは
    答えを出すことは簡単でも
    実現性を考えると目標というよりも願望に近いのかもしれない


  • #3

    yamagata (金曜日, 03 4月 2015 05:09)

    高橋さんの書き込みを読みまして、「少子高齢化」社会においての、この問いの意味を考えました。
    「大きな目標」を例えば「少年よ大志を抱け」といった「大志」とすればその実現のためには、長い時間と修行のような下積みやら努力が必要という感じがします。だからこそ「少年よ」と若者に呼びかけるのかもしれません。
    また、退職1年という方に、仕事において3年後くらい先の目標を持てといったところでリアリティがなかったり、なぜ?と違和感があるかもしれません。
    ところが、60歳から65歳に定年が設定されているとします。その後何年生きるのか誰にも解りはしませんが、女性であれば軽く20~40年くらいある可能性が高いです。つまり、セカンドライフ(サードでも何番目でもいいけれど)において、「人生の目標」を持ちたいという思いを持つ人が増えるのではないかと思います。
    日本経済新聞など読んでいますと、NPO、NGO、ボランティア活動など生きがいを感じる活動への参加者が増えているとか書いておりました。
    「生きがい」も厄介な概念です。高齢者と呼ばれたくないという方もいますが、中高年や高齢者における「人生の大きな目標」とは何かも気になります。

  • #4

    やまがた (金曜日, 03 4月 2015 05:22)

    「人生の大きな目標」と聞いて真っ先に思い浮かんだのは、何故かキルケゴールというデンマークの哲学者の言葉です。どなたかの翻訳の孫引きをします。

    「私に欠けているものは、私は何をなすべきかということについて、私自身に決心がつかないでいることなのだ。つまり、私自身の使命が何であるかを理解することこそが問題なのだ。私にとって真理であるような真理を発見し、私がそのために生きそして死ぬことを願うようなイデーを見い出すことが必要なのだ。真理とはイデーのために生きることでなくて何であろう。人は他の何ものを知るよりも先に、自己自身を知ることを学ばなければならない。さあ賽は投げられた。私はルビコン河を渡るのだ!」

    私は若い時にこの言葉を知って、感激しました。
    この「大きな目標」は、社会主義社会の実現とか世界平和とかいった意味での「大きさ」ではありません。「私にとって」なのです。「資本主義社会での資本家から労働者が搾取する社会はいけないよね。そのような階級社会がなくなるために、君は一生捧げないといけないよね。あなたの個人的な欲望や夢は後回しだよね」といった風な(そんなものがあったかどうかはわかりません)個人よりも全体優先ではありません。また「女性差別や民族差別を無くすことよりも階級社会を無くすことが優先」ならば聴いた言葉ですが、似たようなことだと思います。
    「大きな目標」といいますが、自分の存在そのものも手段や道具にさせてしまうような目標と現代というテーマも気になります。あなたが存在しているのは民族や国家のお陰だから民族や国家のために死になさい。宗教的理想実現のために死ねば天国へ行けます、といった論理があります。
    たった一回限りの人生において、大きな目標を持つということはどういう意味があるのか、必要なのか、良いことか、課題はあるのか、なぜ悩むのか。
    古くて新しい問題かなと思います。
    悩まない人も多いかもしれませんが、この悩みとどう向き合えばいいのだろうか。

  • #5

    BABYMETAL (金曜日, 03 4月 2015 21:57)

    ある進学高校の校長先生が生徒に言う口癖は「高い目標を持て」だった。高い目標とは何か?答は「国公立大学」あるいは偏差値が高い私立ブランド大学。その進学校では、高い目標を実現するために、テレビを観たりゲームをする時間はあり得なく、将来のために、受験勉強しなくてはいけない。

    オリンピックで金メダルを獲得するために、研究のために恋愛も贅沢も捨て精進するという事と似ているようでもあり、違う気もする。

    失敗をして傷つくことを恐れて、大きな目標や高い目標や理想を掲げないということもある。「身の丈にあった目標」「普通が一番、平凡が一番」

    高いとか大きなとかいったような現状否定である。現状を受け入れられない、ここではない何処かに青い鳥がいるという前提はないか?
    辛い出来事や苦しい体験をした後に、
    生きている、生かされているだけでいいといった現実肯定の良さもあるのではないか。

  • #6

    高橋 (日曜日, 05 4月 2015 21:29)

    本日は参加させて頂き
    興味深い意見をたくさん聞けて参考になりました。
    ありがとうございます。
    なかでも興味深かったのが
    「幸せになりたい」は大きな目標か?でした
    私のなかでは「幸せになりたい」を目標にしてしまうと
    他の目標は「幸せになれるか?」という基準に従ってしまうので
    大きな目標として良いものなのか?
    帰り道に考えてしまいました

    幸せになれる道を目標にしても
    青い鳥を探す旅に出ることにしかならないのではないかと
    思ってしまう
    幸せという感情は
    なにか充実する行為の副産物であり
    振り返ってみて感じるものと私は定義しているようで
    過去を目標にすることはできないのではないか?
    私の中の思考の空回りは
    この事が原因だったようです

    私にとってこの思考をしている時間は充実した楽しいもので
    幸せな時間といえると思います
    しかし幸せになりたいから思考をしているとは思っていない

    思考実験を深めれるようになることは
    私にとって目標になる
    しかし大きな目標とはいえない
    幸せになることは人生の大きな目標になるか?
    なると思われます
    ただし「幸せになる努力を怠っている」ことへのギャップから
    幸せから離れていきそうな気がするので
    私にとっては大きな目標としては望ましくない

    どうも
    メインテーマの結論にはあまり興味を惹かれていないことが
    私の結論のようです。