スポーツって何だろう?

(2015年10月17日)


~告知~

カフェ・ティグレ
カフェ・ティグレ

■ 日 時: 2015年10月17日(土) 10:00~11:30

場 所: カフェティグレ伏見店

    (名古屋市中区錦1丁目10-11、ユーキホテル1階)

     地下鉄「伏見駅」10番出口より徒歩1分

テーマ: スポーツって何だろう?

進 行: 神谷塁

参加費: 飲食代実費(400円~)

定 員: 15名

申 込: 不要 (ですが、なるべく事前にご予約ください。定員に達し次第、申込みを締切ります。)

問合せ/申込先:staff.nagoya*cafephilo.jp (*を@に要変換)

 

備考: 

① 100円程度のご寄付をお願いしています。(強制ではありません。詳しくはこちらを)

② 写真撮影と対話の録音をさせて頂いております。NGの方はお申し出ください。

 

《ご案内》

誰もが一度は親しんだ経験があるであろうスポーツ。東京五輪も話題となっていますが、競技のうちいくつかは芸術点という観点が存在します。さらに国技とされる相撲は伝統芸能とすら呼ばれます。他にもスポーツは「ゲーム」「遊び」「産業」など様々な言葉と関連します。これほどまでに日常に溢れるスポーツは私達にとってどういう存在なのか、そもそもスポーツは生きていくうえで必要なのか、改めて皆さんと一緒に考えて行きたいです。

 

~記録~

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~フォーラム~

以下の掲示板は次のようにご利用ください。

 

《開催前》

よろしければ、当日の対話で議論してみたい論点や質問してみたい疑問などの提案がありましたら、こちらにお書き込みください。匿名にして当日の配布資料にさせて頂いたり、進行の参考にさせて頂くかもしれません。

 

《開催後》

カフェの最中に言い足りなかったこと、言い損ねたこと、カフェが終わった後から思ったこと、など。もしありましたら、気楽にお書き込み下さい。

 

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コメント: 28 (ディスカッションは終了しました。)
  • #1

    たつみ (金曜日, 25 9月 2015 20:00)

    人間にとって生存上必要というより、より過剰な活動というべきなのでは。

  • #2

    たつみ (火曜日, 29 9月 2015 11:36)

    「スポーツって何だろう」というこの問を「人間のある身体的な活動がスポーツであるのはいかなる場合か」、あるいはもっと短く、「いつスポーツなのか」と問い、考えるのが哲学的思考なのだろう。しばしば優れたアスリートの言葉に哲学的思考が見出せるのはそのせいだろう。

  • #3

    たつみ (水曜日, 30 9月 2015 23:27)

     軽業、曲芸はスポーツではない?では、いつスポーツなのか?

  • #4

    哲-METAL (月曜日, 05 10月 2015 23:10)

    手探りで、スポーツに近づいてみます。
    ⑴主にスポーツと思われるもの
    バスケ、バレー、野球、ソフトボール、空手、柔道、マラソン、ウォーキング、卓球、フィギュアスケート、スキー、砲丸投げ、カーリング、サッカー、弓道、剣道、ゴルフ、ダンス、新体操、アームレスリング、レスリング、水泳、登山
    ⑵主に遊び、レクリエーションと思われるもの
    鬼ごっこ、かくれんぼ、石を水面に何回跳ねるか投げる、缶蹴り、雪合戦、チャンバラ、夜店の矢的、ビー玉、縄跳び、ゴム縄跳び、あっち向いてホイ、ゲートボール、ボウリング、輪投げ、竹馬、腕相撲、水遊び、キャッチボール
    ⑶主に芸術と思われるもの
    バレエ、日本舞踊、前衛芸術ダンス、
    ⑷主に神事、祭事、お祭りと思われるもの
    流鏑馬、奉納相撲、だんじり、阿波踊り、盆踊り、綱引き
    ⑸主に興行、娯楽と思われるもの
    プロレス、プロ野球、プロボクシング、フィギュアスケートショー、サーカス、曲芸
    ⑹主にギャンブルと思われるもの
    競馬、競艇、競輪
    ⑺主に健康づくりと思われるもの
    ラジオ体操、ブートキャンプ、フィットネス、DVD、ウォーキング、エアロビクス
    ⑻主に体育と思われるもの
    跳び箱、逆上がり、組み体操、カゴいれ、パン食い競争、借り物リレー
    ⑼その他
    散歩、掃除、家事、身体作業、徒歩通勤や通学、ヲタ芸、重い物の運搬仕事、階段を使う

    スポーツと思われるものの共通点や、スポーツではないと思われているものとの相違点は何だろうか?


  • #5

    哲ーMETAL (月曜日, 05 10月 2015 23:32)

    分類に付けたしておきたいことがありました。
    (10)生きていく上で必要なもの
    狩猟、漁撈、労働(プロスポーツは労働でもある。年俸制や賞金を得るため)、洗濯や掃除などの家事
    (11)医療や治療行為
    作業療法、リハビリ、介護予防としての筋トレ

  • #6

    哲-METAL (月曜日, 05 10月 2015 23:51)

    スポーツの現象、目に見える外見的な特徴を列挙してみます。表面的なものも含めてです。スポーツ独自なものかどうかは関係なくです。
    ①ルールがある②大会がある③公式といった公共性のあるものに差別化されている④記録をとる⑤身体を動かす⑤勝ち負けを争う⑥より早く、より遠く、より高くと向上することを良しとする⑦審判がいる⑧観られるものである⑨それ自体が目的で自立した自己完結的なものである⑨訓練トレーニングをする10.用具用品がある11.様式やスタイルがある12.個人的なものではなく社会的な存在である13.勝者や優勝者は表彰される14.技を磨けるものである15.非宗教化され世俗化されている

  • #7

    哲-METAL (火曜日, 06 10月 2015 01:59)

    スポーツの現象の共通点ではあるだろうけれど、明示的でないものを、しかし暗黙の約束事をあげてみます。
    ①相手を殺さない。②ボクシングなど相手を傷つけるものもあるが原則として競技競争相手に危害を与えない③人種、民族、出自、など不合理的な不公平や差別がない平等性を追求する④③の意味で理性的合理的であること⑤薬物の使用や買収や反則に厳しい正義や善悪など倫理的であること⑥男女別、体重別などハンディキャップを設ける合理的な不平等というか公平という価値観が観られる場合がある⑦スポーツは保護され奨励され税金が投入される他の類似の活動より差別化される価値があるものである⑧音楽、美術などの芸術や小説や詩などの文学のように文系の活動と見た目は違えども心を豊かにするものとされる

    最後に 今更なのですが。
    スポーツはカタカナで外来語という出自は明らかですが、対応する日本語は何だろうか?まだ辞書で調べていません。日本文化でなくてヨーロッパ文化的な何かだろうか?柔道は講道館のような家元的なものがあるし、○○道といった道がつき茶華道のような江戸時代の擬似禅宗的な宗教っぽい。また歴史には遊びや宗教であったものが近代化されたイメージがある。歴史的な意味があるのだろうか。
    また柔道界のセクハラや体罰など男性中心的。女子テニスの白いスカートについては男目線であるように思います。国際オリンピック委員会や国際サッカー連盟はカネまみれで魑魅魍魎です。すなわち、スポーツは中立的な装いですが、何か変な気がします。

  • #8

    哲ーMETAL (木曜日, 08 10月 2015 04:40)

    たつみさんの#1の「スポーツは生きる上で必要か」という問いに対して、必要度を超えて「過剰」ではないか?という答えでもあり問いが出たので、考えてみました。
    「過剰」を「生きること」から「生きる上で必要なもの」を引いたものと考えてもよいですが、「生きること」全体やそのものを知るのは人知を越えることかと思います。「仕事(=労働)、生活(食う、寝る、性、家事、育児)」といった「生きる上で必要なもの」を絞り込み、スポーツとはそれにオプショナルで追加できるものと考えてみました。
     非哲学的に「スポーツ=近代発生過剰史観」をこの場限りで自作自演してみます。「原始時代は一日餌を探すその日暮らしの生だった。狩猟技術の向上、農耕開始で過剰生産物が出来るようになって、先ず支配階級がスポーツを享受できるようになり、産業革命後近代になりスポーツは大衆娯楽としてのスポーツを多くの人が享受できるようになった」です。この考え自体も議論してよいのですが、とりあえず乗るとして「過剰」をどう考えるか。
     一つは、不要不急のオマケです。取るに足らないもの。すべり坂を雪だるまが大きくなる論法で言えば、日本国憲法第25条の「健康で文化的な最低限度の生活」のなかに入らない贅沢な活動です。
     もう一つは、労働は必要悪の苦役であり、遊びとしてのスポーツこそが高次の人間らしい生であるというものです。
     しかし、「スポーツ=近代発生過剰史観」でなくて、普遍的な生そのもので考察も出来ます。「自然」と「人為」という「線引き」です。「狩猟や農耕などの生理的欲求を満たす労働や性や衣食住の最低限の活動(家事、食事)」は「自然・先天的・動物的」だけれど、「遊びや遊びを職業化した2次的な労働であるスポーツ」は「人為・後天的・人間的」であり「人為・人工物」は過剰だという視点です。
     世界を「近代以前、以後」で分けるか、「自然」と「人為」に分けるかの視点。
    さらなる問いを立ててみます。①犬や猫や類人猿などの動物はスポーツをしていないか?②スポーツをしたい欲求や衝動は生理的欲求でないのか、あるいは関係がないのか?③いわゆる安心の欲求、所属の欲求、承認の欲求、自己実現の欲求などは過剰な欲求と言えるのか?④スポーツを語る言葉には「戦略、戦術、闘争、ファイト」といった戦争の比喩や「友情、努力、勝利」といった少年ジャンプのスローガンを象徴するスポ根漫画にあるような「ライバルに対抗する味方同士の連帯という外発性、向上心、競争心」に見られるような「知性・理性」ではない「情動」として本来人間に備わるものが発展した自然ではないのか?⑤スポーツは何か金儲けの手段としてするだけではなくて、狭義の金銭的報酬がなくても、スポーツすること自体が楽しいからするという自発的・内発的な「自然」な活動ではないのか?⑥NO SPORTS、NO LIFEなのか?LIFE(生きる)を貧困や劣等な生き方を基準に過剰としてよいのか?過剰があるから人間であるのではないか?

  • #9

    哲ーMETAL (木曜日, 08 10月 2015 05:01)

    たつみさんの#2「人間のある身体的な活動がスポーツであるのはいかなる場合か」という問いについて考えてみます。前提として「スポーツは身体的な活動である」という考えがあるとします。正直に言って、まだ生煮えなままで考え不足ですが端緒として考えます。
     スポーツに夢中になっているときは「忘我」になるときがあります。本を読んでも夢中になる時にもあるのと同じです。①多忙で収拾がつかない②楽しくて夢中③最高の自己実現状態 とかいろいろレベルがあるかと思います。少なくとも他人の視線が気にならないとか、警戒心が低下して自分がどんなひどい姿格好や顔をしているか気にもならない状態ではあります。私が言いたいのは、スポーツしているときの「精神状態、意識、無意識、情動」そのものから考える「精神活動としてのスポーツ」あるいは「心身活動としてのスポーツ」という視点でも考えてみてよいのではないかということです。
    素朴な疑問があります。①テニスや卓球やバスケやサッカーなどオフェンス・ディフェンスの切り替えが早い類のスポーツは、一挙手一投足に「意志」が働いているのか?すなわちスポーツには自我や主体があると言えるか?②スポーツをしている最中に働いている知能なりスポーツ脳なりはどんな活動なのか?少なくとも「卓球のボールは存在するのか?」と哲学したり、状況判断、取り得る選択肢の優先順位の決定などを時間をかけて理性を働かせて反省して行動しているとは言いがたい。「意志」があるから手を上げるのか?手を上げる行為を後付けで意志があるとみないているのか?スポーツをしている主体は何か?精神が身体を支配しているのか?

  • #10

    毬水 (スタッフによる再投稿) (金曜日, 09 10月 2015 03:16)

    「スポーツとは体を動かすものであり
    ルールを守り相手に勝つためのものである」
    日本には明治時代に輸入された概念でらしい
    それ以前には類似するものは少なく
    相撲が比較的近いと思われますがあまり思い付かない
    大人が体を不必要に動かすことは推奨されていなかったのではないかと
    そんな気さえします
    借り物感を拭うことができない新しい言葉に
    グローバルスタンダードというよく判らないものもあります
    その胡散臭さの中にスポーツと同じようなものを感じてしまう
    否定できない要素を多々含み正しいことであると押し付けられる
    ルールがある平等な競争をしなければならないと
    それは正しい方法なのか?
    力の差がある兄弟でのゲームのルールはどちらに有利なのか?
    とても魅力的な誘惑が力のある側に訪れる
    スポーツが絡む事件を眺めているとその誘惑が
    相当広範囲に存在する様を垣間見ます
    その部分はスポーツの本質ではないのか
    それとも本質に近い部分なのか?

  • #11

    哲ーMETAL (金曜日, 09 10月 2015 04:44)

    スポーツに関わりのある方=ステークホルダーにとって、スポーツになぜ関わっているのか、どのような意味があるのかを列挙してみます。
    <1>スポーツを趣味や仕事としてよく「する」人 NO SPORTS,NO LIFEな人はなぜそういう傾向があるのか?
    ①スポーツすることじたいが楽しい。快楽が得られる。②出来なかったことが出来るようになる努力の過程が楽しい、出来ると嬉しい。③より良い生活や仕事をするために体力作りは必要。高齢者になれば介護予防としても重要になる。④友達/仲間を得られる。友達を作りたい。友達に誘われるから。友達と交際する居場所作りになる。⑤闘争や競争が好きでスポーツは勝ち負けがあって良いから。上手であるとか勝つと賞賛され自尊心を満足させる。⑥進学や就職にはスポーツ推薦や体育会系で有利になると信じている。またスポーツ関係の仕事について報酬を得られることを期待しているから。⑦ダイエットをしたり筋肉をつけて自身の肉体を美しくしたいから。⑧性的な魅力を高めてモテたいから。またスポーツサークルは出会いの場だから。

    ところで、逆にスポーツを「しない」人、無関心な人はなぜそういう傾向があるのか?もここで見ておきたい。
    1)身体を動かすのは疲れる。2)怪我や障がいの原因(筋肉痛、骨折)をするかもしれないから嫌い。3)過度なスポーツは心臓や健康にわるい。(4)興味がない。
    5)得意な人、上手な人、勝った人から馬鹿にされたり見下されて嫌な思いをしたし、これからもする。差別の原因となっていると感じている。 6)スポーツは短気で頭が悪く暴力的という偏見(為末さん?)、文を偏重し武を見下す価値観の延長。7)貧困層でお金がなく幼少時からスポーツ用品が買えない、スポーツに接する機会がなかった。

  • #12

    哲ーMETAL (金曜日, 09 10月 2015 04:55)

    次は、スポーツを「みる」人、鑑賞する人を取り上げる。見て楽しむ喜ぶ人の存在は、太守娯楽産業としてのプロスポーツを発達させ、スポーツジャーナリズムやマスコミを発達させ、オリンピックのような大イベントが成立するなど、スポーツ文化が発達する条件である。
    <2>なぜスポーツを「みる」鑑賞をするのか?
    ①楽しいから-なぜ楽しいのか?①-1感動するから 「驚き」は哲学の始りだが、アスリートの超人的な能力を見ることは非日常的なことであり驚異である。崇高な感情を抱く。 ①-2 「する」代理行為だから 選手の緊張感に感情移入するとドキドキワクワクとシンクロナイズしてしまう。手に汗を握る。快感と感じることもある。 ①-3 演劇としてみて物語を解釈をできるから 少年ジャンプのスポ根漫画の「友情、努力、勝利」にあるように漫画やアニメの王道である。場面ごとに鑑賞者の多様な解釈が入り込む余地があり、見るだけで無く物語の創造者としての楽しみがある。 ①-4 人生論や会社経営論のアナロジーを読み込む ビジネス雑誌の定番になっているのはスポーツの監督・コーチや名選手に語らせて、選手育成、チームワーク、目標達成現へ向けての戦略、試合での指揮監督から、経営者、人事担当者、部下を持つ中間管理職が教訓にしたい、自己啓発すべきことを学ぶというものがある ②美をみるため 鍛えこまれた筋肉や洗練された動作や技術を見て美を感じる ③宗教的感情を持つ 超人的な能力を見ることに神に近づく存在でもある。そこに神々しさを感じる ④暴力衝動の代償 ボクシングのような殴打をみて野蛮という意見もあるが、暴力シーンをみて清涼飲料水を飲むような暴力衝動を発散し昇華する快感があり、暴力を振るうのを抑制しているともいえる ⑤英雄/ヒロインをみて尊敬したい。賞賛したい。賞賛者は一部には追従者として、敵を作って噛みつく迷惑な人もいる。 ⑥友人や仕事相手などがスポーツを見ていて選手やチームやスポーツのことを知らないとコミュニケーションがしにくい ⑦自分がスポーツをしている場合上級者のプレイをみることは学習する利益と喜びがある ⑧テレビで見られるならばコストの低い暇つぶし ⑨ゴシップ(知っている人の噂話)をするネタとなる ⑩情動的だから 泣いたり笑ったり感動できるから。映画や漫画を見るのと同じく。

  • #13

    哲ーMETAL (金曜日, 09 10月 2015 05:07)

    3番目は、スポーツを「支える」人たちである。サポーターというだけでなく、スポーツビジネスや、スポーツ庁をはじめ関連する行政(文教、土木建築、福祉、用品・用具メーカー、ジャーナリズム、プロスポーツ、企業スポーツ)、その他も含まれる。
    先ず、サポーターから。私は熱心なサポーター当事者ではないから推測します。
    <3>なぜスポーツを「支えるのか」1 サポーターの場合
    ①チームと一体感を持つことで所属意識が生まれる。サポーター組織に所属すれば「居場所」となりより所属意識が高まる。 ②チームの勝利を自分の成功と同一視して勝利したときは自己承認できる。 ③弱小チームが強くなるのを応援することは弱いかもしれない応援者自身を応援することになり自分を支える行為となり共感を持たせる。 ④疑似オーナー、監督体験ができる。囲碁将棋の岡目八目のような「評論する」快楽があると思われる。 ⑤サポーター同志で仲良くなり交流社交ができる快楽がある。

    あまりに少ないが、サポーター当事者ではないからです。海外試合まで付いていき応援する人は不思議な人たちだと思う。

  • #14

    哲ーMETAL (金曜日, 09 10月 2015 05:29)

    「支える」人はスポーツにお金と時間を惜しまない。スポーツが嫌いでも「利用活用する」人もいる。政治/経済の視点で非哲学的で非論理的な直感思考でなぜ「支える」のかを独断と偏見で列挙します。

    ①エンターテインメントとしてビジネスになる。 ②為政者はローマ時代から「パンとサーカス」を提供し被支配者を満足させることで支配を安定させようとする。東京五輪のような大きなスポーツイベントは不況問題や原発事故など政治問題の争点から目をそらせるためだという邪推や憶測が流布する原因だが、ヒトラーのベルリン五輪の事例もあり説得力がある。③国威発揚(オリンピックなどで国ごとに、高校野球は都道府県代表とすることで、応援者側にアイデンティティが形成され、それを鼓舞することで凝集力が高まる。
    ④教育手段や青少年健全育成の手段として。方向性としては近代スポーツは「民主主義を学ぶ」ということを顕教としているが、軍隊式にしごいて従順な人間を育てるのが密教ではないかという意見もある。 ⑤富国強兵策として、兵士(戦士)の育成のためということは過去にはあったと思う。戦士予備軍として国民の基礎的な体力や体格の向上は関心事であったと思う。 ⑥運動機能の維持、生きがいづくりは、生活自立能力や認知症対策など心身健康な高齢者を増やすことで、医療費社会保障費縮減に現在期待されている。⑦美容、ダイエットなどの手段として、エアロビやフィットネスの需要は大きく金儲けになる。 ⑧スポーツを見るだけでなく「する」ことで楽しみたい需要やニーズがあるためビジネスになり、行政も動く。草野球、ママさんバレーなど。 ⑨バレエなどは芸術でもあるがフィギュアスケートやダンスを始め両方とも楽しまれる方がいる。生涯スポーツや芸術として施設としても被る。 ⑩国際親善なり交流機会となる。 ⑪用具や用品の需要がある ⑫上達したいというニーズからスポーツを教わりたい、教える指導者になりたいという人が相当数いる。スポーツ教室講座や学習機材や本や映像作品が発達した。 ⑬勝負事なのでギャンブルとしてイギリスなどでは対象となっている

    あまりに裾野が広いので想像の限界がありますね。

  • #15

    哲ーMETAL (金曜日, 09 10月 2015 06:09)

    最後に、スポーツを「研究/調査する」人をあげます。

    <4>なぜ、スポーツを調査/研究し、ふりかえり(リフレクション)をするのか?
    ①スポーツが自立/自律し主体的に発展するには、スポーツを対象化して見つめて、考えて、自らが置かれている立ち位置を知る基礎データが必要である。 ②スポーツとは何かを考えて、何のため誰のためめにどうあるべきか「思想」にまで高めて、スポーツに目標を与える人が出てこなければ、スポーツ文化を推進できないから ③現在もニュースポーツが創造され、ルールが更新され続けている現実の背景には、広汎な「調べる」「研究する」堆積物が必要 ④日本のものづくりの工業技術の発展の陰にはノーベル賞連発のように基礎科学や応用化学研究がしっかりしていて現場と研究者が近いからではないか。実際オリンピック選手くらいになると、スポーツ研究者とタッグを組んでフォームを改善したり練習メニューを開発しているようです。

    私もバスケット部の顧問とか多少は経験があります。昨今特に痛感することは、スポーツ技術が向上したり、チームが勝利するためには、経験と勘と度胸だけで済む時代でないことです。筋肉のレベル、遺伝子レベルでさえ調査研究され、筋力強化方法や、技術の習得や勝つための戦術には良い学習や指導の方法があります。

    勝ち負けにこだわるわけではないのです。そうであればやはり勝ち負けにこだわらない人のための文化としてのスポーツについての思想が必要です。

    哲学が日本で盛んになるためには、「哲学をする人」「哲学をみる人」「哲学を支える人」「哲学を調査研究する人」が広がり、増えて、協力しあうことが必要かなと思います。哲学のビジネス化が起きないくらいといけないのかもしれません。
    とつらつら書きましたが、


  • #16

    きよしこ (土曜日, 10 10月 2015 09:26)

    まさに今、NHK『週間ニュース深読み』で、スポーツと体育の違い、スポーツとは何か、出演者が熱く語っていらっしゃいました。

  • #17

    鞠水 (土曜日, 10 10月 2015 16:43)

    100m走などのシンプルな個人競技と
    バスケットのような複雑なルールをもつエンターテインメント
    これらはなぜ同じスポーツというカテゴリーになっているのか?
    私には不思議なことにみえてしまいます。
    体を動かして競えばスポーツ
    魚釣りも登山もスポーツ?
    手漕ぎボートやヨットはスポーツとも言えるのでしょう
    ではエンジンのない3本マストの大型帆船で競ったら?
    はたまた反射神経を要求されるシューティングゲームや格闘ゲーム
    これらはスポーツの範疇なのか?
    違うのならば空気銃の射的との違いが気になります
    モータースポーツは条件付なのでモーターと付くのか?
    早押しクイズも反射神経が必要ですがどうなのでしょう
    チェスや将棋とスポーツの境目は?
    百人一首はどちらなのか?
    また古代ローマの剣闘士はスポーツなのか?
    人気が高まった時代には自由意志で名声を得る為に参加する市民もいたそうなので
    必ずしも奴隷のみが戦っていた訳ではないようです
    命を奪うことが目的ではなくルールがあったとしたらスポーツではないのか?
    K-1の試合などは死者が出てもおかしくはないと思いますがスポーツなのでしょうか?
    スペインの闘牛は?
    スポーツハンティングはスポーツなのか?
    ブラッド・スポーツもスポーツマンシップに則るものなのか?
    倫理や法律の問題をクリアすればセックスもスポーツの範囲といえるのか?
    これらの線引きは誰が決めるのか?
    その決める人を選ぶのは誰なのか?
    政治力は関係するのか?
    お金が儲かるかどうかは影響があるのか?

    哲学のビジネス化
    スポーツ選手や会社の経営者などの成功談には哲学というキーワードが見受けられます
    それらはどういう目的で使用されているのか?
    モチベーションを維持することは根性論やそろばん勘定では無理なので
    目的を哲学と呼べるものまで昇華させる必要があると
    某経営塾で聞いたことがあります
    専門家たちが有効な方法と思っていることを
    哲学の専門家がそんなものは哲学ではないと否定するならば
    ビジネス化は難しいでしょう
    求められていると思うんですが・・・・

  • #18

    哲ーMETAL (土曜日, 10 10月 2015 20:39)

    『週間ニュース深読み』でどなたが、どのように熱く語っていたのか気になりますね。

    問いについて、意見としての応答をします。
    Q1.100M走とバスケットボールがなぜ同じスポーツというカテゴリーになっているのか?
    A1.その時々の社会の人の価値観、身体運動、一定のルールと条件、競い合うの四つをスポーツの要件とすれば充たしていればよいと思います。価値観が曖昧ですが。
    Q2.体を動かして競えばスポーツか?魚釣り/登山/手漕ぎボート/ヨット/エンジンのない3本マストの大型帆船/シューティングゲーム/格闘ゲーム/射的/
    A2.3要件のうち「一定のルールと条件、思想や価値観」の有る無しで区別してみてはどうでしょうか?魚釣りの中には生業のためなら仕事、魚を釣ることに意義を見付け工夫があればスポーツ、生活として必要で登るならばただの運動、山を登ることに価値を見いだしてからがスポーツ。手こぎ・ヨット・エンジンの有無に関係なく、身体運動の工夫によって意義や価値を見付けて様式・文化となればスポーツへとする。シューティングや格闘が「ゲーム」であるならばスポーツ1歩前ですが、ゲームとスポーツの違いは外形的なものではなくて、もはや眼差しと言葉による断定によるとしか言いようがありません。
    モータースポーツは「球技」と同じ造語方法によるのでしょう。
    Q3.早押しクイズ/チェス/将棋/百人一首とスポーツの境目は?
    A3.身体運動の要素がどれだけあるかではないでしょうか?知識や記憶が従ならばスポーツとみなしてもよいことになります。百人一首のスポーツ化は工夫しだしではないでしょか?
    Q4.古代ローマの見世物としての人と剣闘士と剣闘士の闘いは、ずるい言い方をすれば前スポーツであってスポーツではないと表現するのがよいかもしれません。「思想と価値観」という曖昧な尺度が働いているのでは。剣奴は奴隷なので自由な競争ではないでしょう。殺し合い、戦争も含めてスポーツと呼ばないのは、近代になってからのスポーツですからあり得ないのでしょう。スポーツは近代の人権思想を踏まえている近代の概念と思われます。
    Q5.K-1の試合が真剣な殺し合いを宣言すれば犯罪になるのでしょうか。タイガーマスクの漫画の世界はともかく、実社会で殺人ショーは犯罪なので、危険な技をかけない、危険な技の受け身の鍛錬などがプロレスなどの格闘技の妙味でしょう。スペインの闘牛も自殺幇助ではなくリスクが高い運動でしょう。スポーツと呼ぶかどうかは、人々がそう呼べば呼ぶということではないでしょうか?ブラッド・スポーツの定義は解りません。スポーツマンシップについては、論争的なテーマですね。高校野球で松井秀喜選手は4打席連続だったか敬遠でした。ルール違反ではないし戦術や戦略です。
    Q6。性行為がスポーツになりうるか?スポーツはその内容を常に更新しています。可能性を排除することは哲学的ではありません。なりうるか?という問いであれば、なる/ならないのか解らないのですから、なりうると言えます。必ずなるわけではありません。条件として書かれた倫理や法律の問題と書かれている通りです。しかし、およそ可能なものはとか否定できないものは出来るとか、将来なるというのは論理的飛躍か詭弁ではないかと思います。
    Q7,これらの線引きは誰が決めるのか?
    A7.近代以後の世界ですので、誰でも提案まではできますが、それがスポーツとして受け入れられ広がるかは、そのときどきの社会や人ではないでしょうか?
    Q8.スポーツ種目としての成否に政治力は関係するのか?
    A8.社会的に作られるスポーツには政治力はあまり関係ないでしょう。オリンピック種目になるかどうかh、クーベルタン以来ヨーロッパスポーツが種目になってきました。空手やテコンドーや剣道や柔道がなるかどうか、野球やソフトボールがなるかどうかは政治力であるし、男女差別が強い社会では女性が参加できないスポーツもあるかと思います。それも含めて政治力で決まるものもあるかと思います。

    最後に、経営者の人生哲学や成功哲学と「哲学のビジネス化」は意味や定義が異なるものと思います。スポーツ選手や会社の経営者などの成功哲学は、「成功者の成功の理由は、一貫した信念や価値観を持った行動があったからであり、それを知り学び実践すれば誰もが成功する」といった自己啓発の世界のジャンルです。人生哲学は人生から得た教訓です。本屋さんでかなりスペースを取っています。日常の当たり前と思われているところに問題や謎や不思議さを見付け問いを立てたり、その問いの答えを考え続けるという意味での哲学とは異なります。アナロジーとしてスポーツの隆盛を利用しました。誤解を与えたようです。いずれにしても、全て個人的意見です。

  • #19

    毬水 (日曜日, 11 10月 2015 13:45)

    哲ーMETALさんありがとうございます。
    スポーツにはスポーツらしきものがあるだけで
    時代や地域によって範囲は変動するものということでしょうか
    魚釣りの中には生業のためなら仕事
    魚を釣ることに意義を見付け工夫があればスポーツ
    であれば仕事のためのサッカーは仕事でありスポーツではない?
    銃で獲物を狩る狩猟で生計を立てている人が
    オリンピックの射的に出場したとすればどうでしょう
    また登山やヨットはスポーツのカテゴリーに入れれますが
    競い合うものではないし一定のルールも該当しないかと思います

    ブラッド・スポーツ
    主に動物同士を争わせる血まみれの競技
    動物保護団体の目の敵になっています
    たくさんの犬にカワウソを追わせるカワウソ狩りなどは
    娯楽でありスポーツ観戦であり
    参加することが紳士淑女の嗜みだった
    少し前の話なだけでカワウソが有色人種に替わっても
    その時代には倫理的にも法律的にも宗教的にも
    問題はなかったはずです
    今ではスポーツと認められないだけでは?

    またセックスがスポーツになりうるか?
    これも近代のキリスト教的な価値観が入ってくる前の日本では
    隠れてしなければならないものでも恥ずかしいことでもなかった
    これも価値観が時代とともに変わってしまっただけですから
    論理的飛躍か詭弁ではないかと思います
    また闘牛をスポーツと呼ぶかどうかは、
    人々がそう呼べば呼ぶというのであればこちらもでしょうか
    ショウビジネスとしては成功している訳ですから
    生業のためでなく意義を見付け工夫があればスポーツなのでは?

  • #20

    哲-METAL (日曜日, 11 10月 2015 19:30)

    ご質問がありましたので、順番に自分の意見を書きます。
    ①プロサッカーは仕事でありスポーツですね。生業の魚釣りは仕事であってスポーツでありません。ルールで勝ち負けを競いあっていないからです。
    ②本職が猟師の方がオリンピックの射的に出場することは、非猟師の方と同じルールで競いあって出るのですから問題ないのでは。
    ③修験道と異なり、近代スポーツとしての登山は冒険になりスポーツになっています。高校には登山部がありインターハイがあります。競技種目でもあります。ヨットも競い合う一定のルールもありますしアメリカンズカップは有名です。ですが、登山やヨットがスポーツ視されるのは、理論を学びスキルを訓練すればより良く登れる、セイリングできる身体運動であることが確立し楽しめるものになったからと思います。
    ④ブラッド・スポーツ
    主に動物同士を争わせる血まみれの競技は、造語の構造から見て、今議論しているスポーツからのアナロジーであるため同じ土俵で考えることではないと思います。比較して考えるときは、レベルをあわせないといけないと思います。
    ⑤近代以前の身体運動と、近代的概念のスポーツは峻別した方がいいかと思います。過去にはスポーツはありません。過去に基本的人権や憲法はないのと同じです。聖徳太子の憲法十七条は現在の憲法と異なるのとも同じかと思います。過去に現在の価値観を持ち込めないと思います。
    ⑥セックスがスポーツになりうるかについては、身体運動、一定のルールや条件、競い合う、運動に目標を設定する思想や、価値観がある かどうかではないかと思います。
    過去の日本が性に大らかであれ、競技やルールや備えたものはないと思います。これからは、近代スポーツとして、何のために競技するのか、何を競技するのか、スポーツとして成立するための条件があるか、人々の支持を得るかどうかが課題ではないかと思います。
    直感的、直観的にスポーツを考察する場合、直観や直感が妥当なものかはセンスでもありますから、意見が別れるかもしれませんね。




  • #21

    哲-METAL (火曜日, 13 10月 2015 18:39)

    スポーツの成立条件の一つを「身体活動」から「練習やトレーニングをして一定程度の技術が求められる身体活動」としたいと思います。広すぎたかと反省しました。

    生業とスポーツとプロスポーツの共通点て相違点やズレは区別したいと思います。
    スポーツは生活からの過剰という見方からすれば、狩猟のような生業は生きる上で必要な活動で過剰ではありません。
    プロスポーツとは、生活の必要性から抜け出した遊びのスポーツが商業化されたものです。
    スポーツが中核で、プロスポーツは派生物です。何を得て何を失ったか、趣味を仕事にするメリットとデメリットとから予想します。プロ野球を例にすると、野球の超人的なプレーをお金を払ってでも見たいというニーズがありショービジネスとしてプロスポーツになったわけです。技術はより高度化して観客の満足度は高くなります。問題点は、選手からみてプロでない時はスポーツが楽しくて自ら進んで取り組むものでした。プロ契約は義務になります。気が乗らなくても嫌でもします。成績のため年俸を上げるためにします。
    また強制的に引退させられます。プロ野球をゴールにする子どもにとっては、小中学高校の野球も手段になります。子どもも親も利己主義的で勝利至上主義になり、土日休みなく練習します。苦行になります。楽しむスポーツではなくなり、スポーツからズレて遠ざかる感じです。
    生業と非生業のスポーツと再生業化したプロスポーツからスポーツの立ち位置を考えてみることも出来ます。

  • #22

    たつみ (水曜日, 14 10月 2015 19:10)

    毬水さん(♯10)平安時代の貴族たちの遊び「蹴鞠」は体を動かすものであり、ルールを守り、相手に勝つためのものである」スポーツに近いのかなと。

    高飛び込み、スカイ・ダイビングやバンジージャンプ、素手での垂直登攀など、恐怖に挑戦する冒険的な行為、業もスポーツと言えそうな気がするのですが。

  • #23

    たつみ (木曜日, 15 10月 2015 15:29)

    人間の可能性の限界への挑戦・ジェットコースターの類への挑戦は、勿論スポーツではないが、水中への飛び込みでの高さの限界への挑戦?(ナイヤガラ瀑布を木の樽に入って落下する離れ業の例はありました。あるいは高い橋の上かからとか)
    無呼吸の垂直潜水深度記録への挑戦は?丸太登攀。ある太さの丸太の鋸による切断時間(北米やカナダ?の樵たちの競技大会)
    ある重量の土嚢を担いで走る速度(体力テスト)
    野球のボール、あるいはソフトボールを投げる、距離の記録(砲丸投げやハンマー投げ、やり投げとかぶるからか)
    懸垂や腕立て伏せ、腹筋運動の世界記録(これらはギネスブックに記載されているのか?)
    平たい小石で水面を切る(ジャンプさせる)回数
    水面を走って移動する距離(忍者?)竹馬競争
    的を射る競技、エアライフルやボウと手裏剣やダート、投げ矢は?

    けん玉やヨーヨー、皿回しなどは、手先の技だからスポーツではない?お手玉やジャグリングも?
    冬季スポーツであるカーリングとおはじきの遊び、おはじきはスポーツではない。ビリヤードも。九柱戯、ボーリング。馬蹄投げ
    平均台の技と綱渡りの芸の違いは?吊り輪、鉄棒、跳び箱、鞍馬、床運動などとサーカス
    の様々な芸。

    思いつくままに。

  • #24

    哲-METAL (金曜日, 16 10月 2015 06:49)

    スポーツとは何か?
    スポーツに纏わる問題群①ルールはなぜあるのか?②ルール破りは悪いことか③勝つためにはルール内であれば何をしても良いか④男女で種目を分けるのは、男性しか参加女性しか参加出来ない種目は男女差別か
    ⑤オリンピックは平和の祭典か⑥体育はスポーツにマイナスか⑦日本の部活動体験はスポーツにとって良いか⑧スポーツ庁はスポーツにとって良いか、などスポーツをより内側からの価値から考える視点もありますが、スポーツの範囲について、スポーツは常に区別したり範囲を広げてきたため線引き問題も一つのテーマですから時間をかける価値があるかもしれません。今回のテーマの切り口は広いですから。
    過去の蹴鞠は、ルール、普及、練習やトレーニングが必要な一定程度以上の技術が求められる身体活動でした。現在は宮中行事を残す伝統芸能とかイベントとか鑑賞がメインで担い手を選手とは考えられていないでしょう。では過去の蹴鞠はスポーツか?スポーツしている意識、スポーツであると見る価値観が残された課題です。
    ケーキは洋菓子の訳語とかあります。スポーツも西洋運動とか何かあったかもしれません。しかし、スポーツという言葉のまま残され使用されるのは、日本の類似のものには当てはまらない中核の意味を感じとり、翻訳で失われることを恐れたからではないかと私は思います。
    似たようなものにはボランティアがあります。奉仕活動と翻訳してきましたが、敢えてボランティアという言葉と奉仕を峻別して使うことに拘る立場があります。権威や国を批判せずつかえ奉る無私の態度の「無私」或いは利他性である奉仕と、国に命令されてもしない、国から命令されなくてもする自発的な無償性や、利他性であるボランティアをハッキリさせる視点に立つ時には訳さずボランティアを使用します。
    スポーツがなぜ「スポーツ」か?には、明治期には類似概念が日本に無かったか、西洋近代中心の世界観の為か?私はスポーツについては、西洋のものを輸入し紹介し消化され普及してきて、最近になり、体育や日本の部活動を反省し批判的に見られるようになり社会的に構築しつつあるナマモノ概念と思います。そこに働く価値観を見つけ出し言語化するのが哲学かと思います。

  • #25

    毬水 (金曜日, 16 10月 2015 12:59)

    規則を増やして制限をすることは
    本来であれば恥べきことではないのか?
    ルールがあることは公平で平等で正しい訳ではなく
    信頼関係がないのでルールを作らなければならない
    最近はルールがある方が正しいとなってきている気がします
    生活においては物事は曖昧ではっきりしないことが多い
    それに対してスポーツにおいては単純明快で結果が出る
    判り易いことが正しいとされてしまうことは危険だと思う
    単純なことを求める社会を形成するのにスポーツは有効な手段である
    求職の際に体育会系の人は有利で文系は変革を求められている
    とても効果的に作用していると感じます
    スポーツの存在を好ましくないと思うフィルターで見れば
    かなり害がある存在にも見えてくる
    スポーツの存在を悪く言うことはリスクが高く
    発言する場を選ばねば危険すらある
    ルールを否定することもまたリスクが高い

    やはり教育においてスポーツはとても有効な手段のようですね

  • #26

    哲-METAL (金曜日, 16 10月 2015 17:17)

    私的な経験を話します。
    1980年代後半からの、管理主義教育は体育会系教師の体罰や暴力が顕著であったことから、逆上がりや跳び箱といった体力テストが軍事教練種目の安直な復活でもあったことからsportsを逆に読んだ「トロプス」といった身体運動が提案されました。私も当時NGOのイベントでトロプスを体験したこともあります。岡崎勝さん達がされていました。問題提起としては良かったと思います。
    トロプスは、体育とスポーツを両方を否定していますか、私は体育からスポーツへと変化させることが大切かと思います。文化芸術振興基本法やスポーツ基本法が出来たのはつい最近です。識者が策定し国際標準だと思いますが、与えられた法律として理念が広がっていない気がします。

  • #27

    哲-METAL (金曜日, 16 10月 2015 17:22)

    最後に調べました。
    近代オリンピックには芸術競技がありました。絵画とかで金メダルもあったようです。
    スポーツとは今は身体運動などが中核の意味ですが、本来のむかしの意味は違っていたようです。
    スポーツとは何か。結構奥が深いかな。

  • #28

    なつめ (金曜日, 16 10月 2015 19:04)

    中学や高校の学校行事が文化祭、体育祭と呼ばれていたことを思い出しました。また部活動なども同様に類似の二種類に分類されていた記憶があります。スポーツは体育に属するように思えます。つまりそれらの活動は文化ではない!?