私たちは何のために存在しているのか?(2014年12月20日)

~告知~

カフェ・ティグレ
カフェ・ティグレ

■ 日 時: 2014年12月20日(土) 10:00~11:30

場 所: カフェティグレ伏見店

    (名古屋市中区錦1丁目10-11、ユーキホテル1階)

     地下鉄「伏見駅」10番出口より徒歩1分

テーマ: 「私たちは何のために存在しているのか?」

題 材: 岩明均 『寄生獣』全巻

進 行: 奥田太郎

参加費: 飲食代実費(390円~)

定 員: 15名

申 込: 不要 (ですが、人数把握のため、事前に参加のご意志がある場合はなるべく参加申込みをお願いしております。)

 

備考: 

① 100円程度の寄付を参加者有志からうけつけています。(強制ではありません。詳しくはこちらを)

② 当日は、参加者皆さまのご許可をいただいて写真撮影(ホームページその他での報告のため)と対話の録音(研究のため)をさせて頂いております。。

 

《ご案内》

1988年から1995年にかけて雑誌上で連載され、単行本の累計部数1000万部超を誇るマンガ作品『寄生獣』は、連載終了から20年の時を経て、本年、テレビアニメ化・実写映画化され、再び注目を集める屈指の名作です。ある日突然地球上に存在し始めた謎の寄生生物。この生物は、人間の頭部に寄生し人間を捕食します。偶然頭部への寄生を免れたものの、代わりに右手に寄生されてしまった主人公新一と、その寄生生物「ミギー」との間に生じる対話と共生を通じて、物語は、「食べること」「生きること」「繁殖すること」「存在すること」といった根本的なテーマをめぐって展開していきます。今回は、物語をすべて読んでいることを前提として、読者としてそれぞれがこの作品から受け取った問いを一つずつ掘り起こしながら、『寄生獣』を哲学的に語り尽くしたいと思います。(すべて読んでいなくてもご参加いただけますが、ネタバレは不可避ですので、ご了承下さい。)

《お願い》

  1. よろしければ、当日の対話で議論してみたい論点や質問してみたい疑問などの提案がありましたら、下記フォーラムにお書き込みください。匿名にして、当日の配布資料にさせて頂いたり、進行の参考にさせて頂くかもしれません。
  2. カフェ参加者によるレビューを募集しています。応募いただいたレビューは次回参加者に配布するほか、本HP上(下記)やカフェフィロブログに掲載させていただくことがあります。詳しくは「お問合せ」にてお尋ねください。
     
     

~記録~

配布資料
【ネタバレ注意】この資料には、ストーリー展開を暴露してしまう記述が満載です。ご注意下さい。
漫画de哲学20141220.pdf
PDFファイル 120.6 KB

哲学カフェ開始前(題材漫画『寄生獣』を、議論の参照用に持ってきた進行役氏と某ベテラン参加者氏)

哲学カフェの様子

哲学カフェ後の「ランチ懇親会」の様子

facebook報告

報告です。昨日、12月20日、「漫画de哲学」シリーズ第五回 (テーマ: 私たちは何のために存在するのか、題材: 岩明均『寄生獣』)が、伏見のカフェ・ティグレで開催されました。哲学カフェ自体に14名参加(うち初参加2名)、その後の「...

Posted by 哲学カフェ@名古屋 on 2014年12月20日

~フォーラム~

以下の掲示板は次のようにご利用ください。

 

《開催前》

よろしければ、当日の対話で議論してみたい論点や質問してみたい疑問などの提案がありましたら、こちらにお書き込みください。匿名にして当日の配布資料にさせて頂いたり、進行の参考にさせて頂くかもしれません。

 

《開催後》

カフェの最中に言い足りなかったこと、言い損ねたこと、カフェが終わった後から思ったこと、など。もしありましたら、気楽にお書き込み下さい。

 

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コメント: 5 (ディスカッションは終了しました。)
  • #1

    山方 (金曜日, 19 12月 2014 02:10)

    『寄生獣』が話題となった時に読んだけれど怖かった印象はあったが、「哲学的」とか漫画界の高い評価があることは今回初めて知った。久しぶりに『寄生獣』を読み直し、今回のテーマ「わたしたちは何のために存在しているのか」について哲学カフェで問い直してみたい論点を幾つか挙げてみます。

    1.なぜ「わたし」(単数、個体、実存)の生ではなくて「わたしたち」の生を問うのか
    2.なぜ「何のために」と<本質>を問うのか?
    3.「何」とは「何か」か?「大義」「目的」とすれば、仮に以下のものを設定てしてみた場合、その解答を選択し、生きることで良いことか?
     例:国家、社会、神の栄光、人類、イデオロギー、理想、夢、家族、愛する人、子ども、欲望達成、名誉、幸福、他者からの賞賛
    4.「何のために」の答えに、より普遍的なものがあるのか?
    5.「何のために」の答えは誰が決めるのか、
      本人が決める、決められるものか?与えられるものか?
    6.なぜ「わたし(たち)は何のために存在しているのか」と問いを立ててしまうのか?
    7.6との関連でよく挙げられるのは、その条件としての「自意識」「精神」があり、「自我の目覚め」「青年期の課題」など言われることがあるが、子どもや高齢者にはないのか?
    8.6との関連で、その条件として、社会的少数者、被抑圧者、生き難さを感じている人間が問うものか?
    9.6と8との関連で、そもそもこの問いを立てない人間もいるのか。
      立てやすい人間あるいは問うだけの動機がいるのか。
    10.「存在」を問うのは「死」を知り、自覚できる「人間」あるいは「精神」がある存在だけか?人間意外の動物やロボット・人工知能は問わないか?
    11.田宮良子などが問うのは、存在の不安か?虚しさか?退屈か?好奇心か?
    12.永遠に生き続ける不死の存在(神や絶対者)はこの問いを立てるか?
    13.この問いに回答が得られない場合は、生きることはどうなるのか?
    14.「何もない」という答えはよいか?
    15.「寄生生物」と宿主はある意味「共生」関係にある。「寄生生物」がこの問いを立てるのは「自立」しているからか?一方的依存する関係ではこの問いは立たないか?
    16.「二人のため世界はあるの~」という歌があったが、この問いそのものを立てず、「存在している」こと自体が自明なのであるから、問うことよりも、「私(たち)のために世界はある」という居直りのテーゼが日常的世界観だが、それのどこが問題なのか?
    17.「寄生」を「ある生物が他の生物から栄養やサービスを持続的かつ一方的に収奪する場合を指す言葉」だとし、ネタバレだが「人間」も他の動物に「寄生」している「寄生生物」だとすれば、人間にとって「自立」とは何か?
    18.人間に寄生している回虫が、自意識を持ち、自身の存在理由を問うということの意味や宿主にとっての意味は何か?
    19.若者は親に寄生(パラサイト)していると言えるか?「パラサイトシングル」説のような言説は、若者蔑視・バッシングであるが、寄生は悪いことなのか?
    20.フランケンシュタインの怪物、すなわち人によって創造された生物もやはりフィクション作中であるが「私は何者か」と問う。エヴァンゲリオンの綾波レイではないが、クローン・生命操作によって作られた人間(完成体であれ臓器や脳)など「手段」とされたものが、それ自体が生きる意味を問う主体となることがあるのか?
    21.3との関連で、この問いに対しての解答は、個々の人間の尊厳を消失させ、何かのための道具や手段として機能としてしまうのではないか?
    22.食物連鎖から抜け出すことが、サプリメント食、3Dプリンターで作る合成食糧で可能だとしたら、それで野生を失う人間は幸せか?家畜か、マトリックスのような存在、電気仕掛けのロボットに近づき、「存在」のレベルを下げないか?
    23.太古人類は、サーベルタイガーに捕食されていた。進撃の巨人は捕食されていた過去のトラウマを思い起こさせる。捕食される側に立つ、反捕鯨論、反イルカ漁論に正義はあるか?
    24.「存在すること」と「生きること」を問うことは同じ問いなのか
    25.「存在するだけでいい」ということはないか。認知症の親、「植物状態」となった患者・・・存在を否定される可能性がある「出生前診断」で堕胎される可能性のある側からみて、この問いは人間をはかる物差しを作らないか

    以上

    実写版映画『寄生獣』を観ました。ミギ-がさらりと『われわれはどこから来たのか、われわれはどこへ行くのか、われわれは何者か』と言ってのけたのには少し可笑しかった。ゴーギャンの大作『われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか』の順番を並べ替えたが、パクりというものではない、学校で会社で家族の中で、不遇感があっても、満ち足りていても(「王子」で恵まれた境遇だったガウタマ=シッダールタでさえ問うた)、呟いてしまうものだ(大げさかな)。子どもが成長して、大人になるときの通過儀礼・麻疹のような病かもしれない。自明であった自分の存在に驚く哲学らしい問いであるが、しかし人間の傲慢を戒める補助線となる点でより深めた作品かなと通俗的な感想を抱きました。どのような観点や視点が出て、深まるか楽しみにしております。

  • #2

    山方 (金曜日, 19 12月 2014 09:50)

    テーマについての問いから、作品に即しての論点をいくつか。
    ①ミギーは寄生生物と言えるが、田宮良子や後藤は寄生していると言えるか?宿主と共生しているか?
    ②ミギーや田宮良子が問う「私たちはどこか来たのか、私たちはどこへ向かうのか、私たちは何か」「私たちは何のためにそんざいしているのか」は、進化のつながりがなく、突如現れ、子孫が作れない、一代限りの絶滅危惧種と人間とでは、重みや意味が違うのではないか。
    ③生殖しないのに生物といえるのか。
    ④「この種を殺せ」という命令が本能や遺伝子ならば、人間でさえ環境に決定されれば、罪にとわれないのではないか。
    ⑤寄生生物やクマなど、人間を食べた動物は被告として裁判されうるか。
    ⑥人間も命令に支配されていないか。

    以上

  • #3

    山方 (日曜日, 21 12月 2014 06:50)

    昨日の哲学カフェ後、検討してみて考えたことです。
    利己的遺伝子説によれば、私たち人間が「個性」とか「実存」と言ったところで、生命=遺伝子にしてみれば乗り物に過ぎず、どんな乗り物でも、一時の仮初めの乗り物に過ぎず、質や意味などないかもしれない。

    しかし、哲学する寄生生物田宮良子・田村玲子とミギーの問い「私たちはどこから来たのか、私たちはどこへ向かうのか、私たちは何者か」から始まり、
    「われわれ寄生生物は弱い」「私たちは家族だ、寄生生物は人間の子ども」という到達点を考える補助線として、パスカルのパンセの有名なフレーズがよいのではないかと思いました。
    パンセ347
    「人間はひとくきの葦にすぎない。自然のなかで最も弱いものである。だが、それは考える葦である。彼をおしつぶすために、宇宙全体が武装するには及ばない。蒸気や一適の水でも彼を殺すのに十分である。だが、たとい宇宙が彼をおしつぶしても、人間は彼を殺すものより尊いだろう。なぜなら、彼は自分が死ぬことと、宇宙の自分に対する優勢とを知っているからである。宇宙は何も知らない。だから、われわれの尊厳のすべては、考えることのなかにある。
    われわれはそこから立ち上がらなければならないのであって、われわれが満たすことのできない空間や時間からではない。だから、よく考えることを努めよう。ここに道徳の原理がある。」
    田宮良子・田村玲子の弁を利己的遺伝子説とパスカルの弁をあわせるとこう解釈することもできると思う。
    「人間も寄生生物も、連綿と続く生命・遺伝子を乗せる「考える乗り物」である。なかでも寄生生物は最も弱い。人間も寄生生物も殺すのには宇宙全体が武装しなくてもよい。だが人間の子どもである寄生生物を作り共食いさせたとしても、人間も寄生生物も、、「人類の数を減らせばよい」とフト考えた誰かよりも尊い。なぜなら、人間も寄生生物も自分が死ぬことと、生命・遺伝子の自分に対する優勢とを知っているからである。生命・遺伝子は何も知らない。だから、人間と寄生生物の尊厳のすべては、考えることのなかにある。われわれはそこから立ち上がらなければならないのであって、われわれが満たすことのできない空間や時間からではない。だから、よく考えることを努めよう。ここに道徳の原理がある。」
    人間は乗り物としては改良に改良を重ねた汎用車両だとすれば、寄生生物は人間を食い殺す目的だけで作られた特別車両だ。田村玲子は人間を殺せという遺伝子の命令=自らの存在目的に反して死を選び、ミギーは有限の生の時間でよく考えることに徹することを選び内面への旅へ出た。
    人間中心主義に回収されているではないかということかもしれないが、
    短時間のうちにパスカルの境地まで達した哲学する寄生生物田宮玲子とミギーは凄いなと思う。

  • #4

    皐月 (日曜日, 21 12月 2014 14:57)

     初めてフォーラムに書き込みをします。皐月です。
     昨日はありがとうございました。対話が終わってから少し思いついたことがあるのでここに投稿させて頂きます。

     昨日の哲学カフェの最後で「人間の条件」という話が出てきました。それに関連して思ったのは、『寄生獣』という作品においてもっとも人間らしい人間、人間という種の象徴のような存在なのは「浦上」なのではということです。浦上&人間と寄生生物を対比させながら少し文章をまとめたいと思います。
     浦上は殺人鬼のキャラクターで、彼は自分の気分次第で他人を殺します。それは生きるためには必要のない行為であり、寄生生物たちから見れば無駄と思われるであろう行為です。
     一方寄生生物たちも人を殺しますが、彼/彼女らは基本的には食事のためにしか人を殺しません。それは生物として、ひとつの個体として必要にせまられて行われているだけであり、また必要な分だけしか人を捕食しません。満腹感を覚えればまた空腹になるまでは人を殺すことはありません。
     この「無駄」と「必要」の差こそが人と寄生生物、付言するならば人と他の動物たちを分けるもののひとつなのではないでしょうか。
     我々人間の社会は「無駄」、プラスのイメージを持つ言葉に置き換えるならば「余裕」にあふれています。作中で若者が食べかけのハンバーガーをまずいと言いながら捨てる描写がありました。あれは食べ物の味を楽しむ余裕でしょう。これは寄生生物や他の動植物たちでは考えられません。そもそも彼らは食べるかどうかわからないものを生産したりは基本的にはしません。食べ物だけではありません。衣服・住居・スポーツ・芸術など、人間の営みのほとんどは、ただ生存するだけならば必要ではないものばかりです。ミギーの言葉を借りて言うならば「ヒマな動物」だからこそやっていることがほとんどではないでしょうか。そしてそれらは他の動植物を過剰に消費することで成り立っているように思えます。
     寄生/共生ということに繋げて考えるならば、人間という種が過剰に他の動植物を消費することがなければ、この寄生/共生という考えは出てこなかったのではないでしょうか。
     というのも必要な分だけの消費なら、ひとつの種を絶滅にまで追い込むようなことは難しいのではと思ったからです。作中においては、警察(政府)は寄生生物たちの存在を早い段階から気付いていながら、それを公表するようなことはありませんでした。たしか「寄生生物による被害なんて公表しなければいけないほど大きいものではない」というようなセリフを警察官が言っていたように記憶しています。彼らが捕食する人の数なんてたかが知れているからでしょう。作中全般を通しても、寄生生物を「人類を滅ぼすことができるほどの脅威」と見せる描写はなかったように思えます。
     一方で先ほども述べたように、我々人間の生活には生きるために必要ではない消費にあふれています。そして、その必要のない消費が特定の種を絶滅に追い込んだり、環境問題を引き起こしたりする事例は決して少なくありません。それが人間に災いとなって帰ってくることもあります。それの歯止めとして共生という考え方が出てきたのではと思いました。

  • #5

    山方 (日曜日, 21 12月 2014 22:57)

    今日、書店に行ったら雑誌『ユリイカ詩と批評1月臨時増刊号 岩明均』が出ていたので、斜め読みしました。
    私の感想としては、名古屋の哲学カフェ、ユリイカとはまた違って、寄生獣の読み方はよかったのではないでしょうか?身びいきかもしれませんが、そう思いました。