理解している・されているとはどういうことか?(2014年11月2日)

~告知~

カフェぶーれ
カフェぶーれ

■ 日 時 :  2014年11月2日(日)11:15 - 13:15

                                     (時間にご注意ください!)

場 所: 名古屋駅西 カフェぶーれ

     (名古屋市中村区椿町6-27 ホテル ル・ウエスト1階)

     名古屋駅新幹線口から西へ徒歩2分

テーマ: 理解している・されているとはどういうことか?

 (通常のぶーれ企画「メタ哲学カフェ」ではありません。)

進 行: 髙木美歩

参加費: カフェぶーれでの飲食代実費(300円~)

定 員: 12名

申 込: 不要 (ですが、人数把握のため、事前に参加のご意志がある場合はなるべく参加申込みをお願いしております。)

 

備 考:

① 哲学カフェ終了後は隣のお店に場所を移してランチ懇親会を予定しています。お気軽にご参加ください。

② 開催場所(カフェぶーれ)はAM11:00開店です。それまではCLOSEDの札が出ていますがお休みではありません。

③ ホテルのロビーは宿泊者用ですのでご利用をご遠慮ください。

④ 参加者皆さまのご許可をいただいて写真撮影(ホームページその他での報告のため)と対話の録音(研究のため)をさせて頂いております。

⑤ 100円程度の寄付を参加者有志からうけつけています。(詳しくはこちらを)

 

《ご案内》

「あの人は私の一番の理解者です」「それは誤解だよ!」「わかったって言ったじゃない!」などなど。私たちの生活は「わかった」を巡るやりとりに溢れ、意思疎通の喜びの裏で大いに勘違いやすれ違いをしています。そんな私たちはお互いに何を「理解」しあっているのでしょうか?皆さんと考えてみたいと思います。

《お願い》

  1. よろしければ、当日の対話で議論してみたい論点や質問してみたい疑問などの提案がありましたら、下記フォーラムにお書き込みください。匿名にして、当日の配布資料にさせて頂いたり、進行の参考にさせて頂くかもしれません。
  2. カフェ参加者によるレビューを募集しています。応募いただいたレビューは次回参加者に配布するほか、本HP上(下記)やカフェフィロブログに掲載させていただくことがあります。詳しくは「お問合せ」にてお尋ねください。

~記録~

哲学カフェの様子

~フォーラム~

以下の掲示板は次のようにご利用ください。

 

《開催前》

よろしければ、当日の対話で議論してみたい論点や質問してみたい疑問などの提案がありましたら、こちらにお書き込みください。匿名にして当日の配布資料にさせて頂いたり、進行の参考にさせて頂くかもしれません。

 

《開催後》

カフェの最中に言い足りなかったこと、言い損ねたこと、カフェが終わった後から思ったこと、など。もしありましたら、気楽にお書き込み下さい。

 

下記に コメント:n となっていれば、現在n個のコメントがある、という意味です。たくさんある場合、コメントは投稿順に並んでおり、入力欄はコメントの一番下にあります。(下記「コメントをお書きください」リンクで飛べます。)

また、投稿するには「名前」記入が必須となっていますが、これは本名である必要はありません。

コメント: 6 (ディスカッションは終了しました。)
  • #1

    落合だいもん (土曜日, 18 10月 2014 00:30)

    当日参加できないのですが、質問でもなく論点でもなくテーマに対しての意見をここで述べるのは構いませんか?

  • #2

    落合だいもん (金曜日, 24 10月 2014 00:28)

    先述の件、運営の方から丁寧なメールで回答をいただきました。
    意見もフォーラムにあげてよさそうなのであげちゃいます。

    理解することについて、自分なりに考えてみました。当日の哲学カフェにとって何らかのスパイスになれば、と思います。

    理解することを、まず二つに分けます。一つは共通の理解です。これは言葉の意味や使い方、辞書的な理解です。この理解についても人によって多少差があるとは思いますが、まあ大体通じる基本となる理解、です。
    それと、個人における理解、これは言葉だけではありません。言動やファッションなどにも及びます。
    個人における理解は特に、言葉に額面以上の働きをもたせます。
    たとえば「ハンマー」といきなり言ったら「何するの? モグラでもいたのの?」となりますが、日曜大工真っ最中ならハンマーを取ってほしい、という意味にもなります。
    おなじ状況で「金魚」といったとしても何が何やらわかりません。でも普段から「金魚」が口癖の人なら、それを知ってる友達はあぁ、ご機嫌なんだなと感じるでしょう。

    何の話かというと、個的な理解は文脈と関係に依存するということです。その理解が広範囲かつ深度を伴い自分の傾向に沿った言外の意味を汲んでくれる場合にその相手が理解者となります。
    また、一般的に理解力、という言葉があります。これはその人の言葉や状況からそれ以上の意味をくみ取る能力になります。
    なので理解力が高い人はおそらく大体の人に対して応用が利くともいます。
    その反対で、なぜ誤解が生まれるかといえば、厳密には言葉一つでも絶対的で局地的な意味を与えることはできないというブレから生まれるのではないでしょうか。国語辞典と広辞苑では同じ言葉でも掲載している解釈が違います。言葉には共通し「ほぼ」それを指すイメージのようなものはありますが、厳密にはふり幅があります。個人的な文脈が絡むとそのふり幅はより増すと考えられます。その一方で実際に正しくなくとも理解は成立します。
    例えば曇っていて、空に閃光が走れば雷の音がするな、と思うでしょう。隣に友人がいれば「おっきな音がなるよ!」と二人して耳をふさぎます。このとき、音も光も放電の結果なので本当は同時に起こっています。でもこんなこと知らなくてもこの二人は空が光ったら大きな音がする、という理解をもち、さらにそれを互いに耳をふさぐ、という理解につなげています。片方が現象自体を正しく理解していたとしても、この状況は変わりません。
    よって、個人的な理解は相手に依存します。
    ただし、すでに述べたように言葉に絶対的な意味はもたせられません。ゆえにこのふり幅を埋める課程が理解を深める作業であり、共通する意味あるいは意味をなるべく共有することが理解になります。それは互いに確認することで成り立っていくと思います。もっといえば、個人的な理解における思考や状況は常に変化、更新されていきます。なので、将来にも通用するであろうその人の傾向や癖を知り、把握することが理解されている、ということになるのかもしれません。

    それは理解していこうという姿勢を共有するものであり、理解してるあるいはされているとは、じつは理解しようとしている姿勢を許可している状態なのかもしれません。

    もう少し考えます。理解がもたらす意味についても検討してみたいと思います。
    理解することで何が生まれるか、ということです。
    理解しきるこはできなくても、その姿勢を許可することは互いの関係を合理的にしつつも温度を持たせることができます。どういうことかというと、基本的に理解する、ということは理解した内容をいちいち考え直さなくても活用できる省略の効果があります。対人関係のいわゆる阿吽の呼吸というものは目的に対しては非常に合理的かつ効率的です。餅つきでいちぺったんごとに「杵をお餅に向かって振り下ろすから手をどけてちょうだい」「よしきた、ぺったんして振り上げたらこねこねするからしばしまたれよ」といちいちやり取りしてたら餅が硬くなります。
    でも、ここには互いを思考や行動をコンパクトにまとめつつ、把握することができます。こうすることで人はよりその人のことを整理して察するようになります。その分余力ができるので、さらに理解しようとするか、それ以上相手からの発信や整理すべき情報がなければそこで理解は止まります。

    ひょっとして会話のない夫婦とかって、理解する情報がなくなったので飽きてくるのかもしれませんね。そこに温かみがあるかどうかは別の要素が絡むかも知れませんが。

  • #3

    山方 (金曜日, 31 10月 2014 17:51)

    「理解している/理解されていない」がテーマなのですが、「理解する」という言葉から始めます。「理解する」の辞書的な意味は二通りあります。一つは言葉の意味が解るとか、原因や結果などものごとを「論理的」に解るということです。「言語」や「理性」に関係があるものです。
     もう一つは、他者の置かれている立場や状況を察するということです。相手の立場を想像する、感じ取る精神活動であり、すなわち、悔しさ、喜び、悩みなどの感情・気持ちなどを「追体験」する・できることです。

     理解する対象が「自然法則」や「文章」など論理であれば、「理解できたかどうか」を評価することができるでしょう。無批判的に正しいとされる公理を出発点に論理的に正しく導き出される定理を「理解する」ということは誰もが理解できることとしてあげられると思います。

    しかし、今回のテーマは人間が他の人間を「理解している」「理解されていない」とは何かです。「すれ違い」「誤解」「無理解」など、人と人とが理解しあうことの困難や問題は、人間らしい問題といえます。
     一番目の「理解する」の定義の理解問題と比較すれば、一番目は、対象を要素に分析してその関係について論理的関係を設定して理解するということですから、観察可能・分析可能な対象によくあてはまります。しかし、このような一義的な分析的理解は、人間にあてはまるのでしょうか。
     例えば、Aさんは「女性だ」「優しい」「○○人だ」「南山大学の学生だ」「障害者だ」とということをAさんを「分析して」「理解している」ことになるのでしょうか。
     女性差別、学歴差別、民族差別、障害者差別は「蔑視」ということだけでなはくて、Aさんを何かに限定して理解することは、Aさんそのものの理解から遠ざかる=偏見でもあるともいえます。
    別の観点でいえば、ある人にとってAさんが「慎重な性格で思慮分別がある」という理解をしても、別の人にとっては「優柔不断で屁理屈ばかりこねている」という理解も成り立ちます。
    そもそも人間を記述するということ、分析することは、理解している十同時に理解していないという矛盾的なことが同時に起きている気がします。

    話を戻します。人間の「心」は客観的に観察可能なのでしょうか。
    観察不可能な電子・原子・社会・市場とか概念でも論理的に考察しているかもしれませんが、「実験」や「検証」などできるものたちな気がします。人間の心を理解するということは、起きていることや方法が違い同列で考えてはいけないのかもしれません。

     人間は「経験」「趣味」「嗜好」が違えば、同じものを見ても体験しても同じような感想・感情・認識を持つものではありません。海外旅行に行った時に建築物を見ても、様式や素材などの知識のあるなしでは見方が違うなあとか思うことがあります。世界は同じように表われるわけではないようです。
     虹が何色に見えるのかも、言語によってある色・無い色があるようです。

     人と人が「理解している」ことが成立するためには、お互いに共通のものがあり共有できなくてはならないのでしょうか。
     テーマは「理解している」なのに、今まで「理解する」と「理解している」を区別せずに使用してきましたので、ここで整理しつつ考察してみます。 

    まず、お互いに「理解していない」状態があります。
    「理解されるべき心」が存在していても「認知されてない」状態です。
    そこから「理解する」という行為らしきものが起きますし、「理解しようとしている」意志なりがあるようにみえます。
    そこで、流れとしては「理解できる」ことは「理解している」状態になりますし、「理解できない」ことは「理解されていない」状態になります。
    「理解されていない」といっても、それが「認知されていない」こともあれば、「理解できない」といことが理解していることがあります。

     人を理解するとは、それまでその人について知らなかった、気づかなかったことを、あらためて知り直す、見方が変わることではないでしょうか。そもそも自分が何であるを自分でも解りません。理解するとは、絶えざる自己認識の更新と他者認識の更新のことだと思います。

     「理解している」ことの意味はさらに別の意味があると思います。それは「理解していない」という不満や不安という問題を解決した「安定状態」のようなものであり、日常生活の交際が問題なくいっているということです。
     しかし、逆に「理解している状態」はゴールではなく、新たなお互いの無知や無理解という「不安定状態」を内包しているに過ぎない過渡期状態とも言えます。

     Aさんにおいて「Bさんは○○だ」という「理解」は、Bさん側からみれば「Bさんは○○だ」という誤解であるというばかりではなく、Bさんとは何であるかという新たなフロンティアが無限に生まれ続けるための中途半端な理解ということから免れないでのはないかとも思います。
     実際に、「理解している」と思い込んでいる状態は、不和や対立を引き起こす「不安定な状態である」の例として親子関係や夫婦関係などがおかしくなるのは、一方の「理解されていない」という思いへ気づかない、思いをいたさないことから生まれることがあります。
     「理解しよう」とつとめること、「人が人を理解することは難しい、不可能」あるいは「私の他者理解は誤っている可能性がある」という自分自身が誤る可能性があるという自己懐疑がなければ、不断に人間関係を反省しなくてはいけないのかもしれません。
     話が長いけれど、もう少し続けます。
     「理解している」「理解されてない」というのはその内容の真偽を問うものではない場合もあるのではないか。心の内容を理解するということではなくて、その人の人間性、人格、努力などを「承認されたい」「賛成・指示されたい」という欲望・願望・期待ではないのか。
     または、親や恋人や親友など、意味ある他者から暖かい目で見られている=愛されているという意味ではないか?
     それは、言語よりも非言語的なコミュニケーション(ボディタッチ、アイコンタクトなど)で「理解」しあう確認行為ではないのか。
     あるいは、その場で初めて会った人どうしで、理解している/理解されていることが生じるのは難しいことであり、共通の体験、行動、労働を長期間してきたことで生まれる信頼のことであり、惰性的なものもあるのではないか。
     興味がつきないテーマですが、気になることを挙げます。
    ①意気投合という言葉あるが、よく知りもしない人どうしで初めてどうしでも話があう、「馬が合う」ような共鳴できることが起きるのは何故か
    ②理解するということは「評価すること」「審判すること」「値付け・寝踏み」をすることか。
    ③理解するということは、「評価しない」「非審判的な態度」で相手を受け入れることか。
    ④「簡単に理解されたくない」という真逆の気持ちはないか?人に簡単に理解されるということは、どこか決めつけられることであり、評価されることであり、分析されることであり、居心地はよくないのではないか。
    ⑤ときには「理解できない」ということを正直に認め相手に伝えることが誠実なのではないか?
    ⑥「理解している」とは細かな差異をに気づかない、無視することの別の謂いではないか。
    ⑦人は他者の一面や一部のみ理解できるのではないか。理解できない部分があることが含意されているのではないか。理解できないところがあることを自覚した「理解している」が本当の理解しているではないか。
    ⑧理解されていないとは、互いを異なる存在として認めることとして良いことではないか。
    ⑨「感情労働」として、「理解しているふり」を示すことができるか。看護師/教師/カウンセラーは、前傾姿勢、頷き、相手の言葉をそのまま言い返す、否定しない、など「傾聴的態度」のスキルが模範であると示される。理解している/されてい
    ⑩その人の考えていること、思想をほとんど「理解していない」が、その人自身を理解するということがあるのではないか。
    (例)アインシュタインの妻が、新聞記者に「あなたは相対性理論を理解できるか」と聞かれて「私は相対性理論は理解できないけれど、アインシュタインは理解している」と答えるといったような。
    ⑪理解している/理解されているかどうかを、測る基準はあるのか?あるとすれば、どのような方法と基準が考えられるか
    ⑫他者の心を理解できるのか?理解できないのではないか。
    ⑬他者の心というものは、自分が理解したいように理解しているのではないか?
    ⑭セラピーロボット(アザラシ型癒やしロボット「パロ」など)のように、人間の言葉や感情を理解しているかのようなロボットがある。そもそも理解されているとは、条件反射的な、不随意的な反応とはいえないか。
    ⑮動物(猫・犬)は飼い主の感情を理解しているか?人間も動物の心を理解しいてるか?なぜそう思うのだろうか?

  • #4

    山方 (土曜日, 01 11月 2014 09:43)

    短めに
    先述は、日常的な理解について触れましたが、「理解できない」ことについては今回のテーマと重なるかどうか。別の機会かもしれません。
    理解できない人を、精神障害者や病人として精神病院に閉じ込めてきました。また、発達障害など知見も増えました。
    正常・ノーマルな社会や個人から、異常・アブノーマルとされたホモセクシャルと同様、その価値観は問われています。べてるの家の当事者研究など、了解不可能とされた当事者からの声や自閉症の若者の本が国内外でもだされ、理解できる限界はかなり広がったかもしれません。
    ただ、佐世保の高校生の同級生殺人をはじめ、理解出来ないこととか、近頃の若者はおかしいという世代論は絶えて無くなりません。
    私たちの理解というベースは何なのかも気になります。

  • #5

    山方 (土曜日, 01 11月 2014 16:38)

    蛇足です。
    ①日中韓は歴史問題で理解しあえるか②女性の教育を否定するイスラム団体を理解できるか
    「理解」には賛成という意味もあれば、理解できるが賛成しない寛容さや非決定ということができないか。異文化理解、国際理解の理解という意味で。

  • #6

    落合だいもん (土曜日, 01 11月 2014 23:20)

    山方さんの気になることのなかの、11番、理解についての尺度と12番理解できないのではないか、13番理解したように理解しているのではないか
    について、思ったことがあります。

    理解の対象が人間の場合、相手が理解してくれてると感じて双方の意思疎通に困難がなければ理解が成立するとみなせるのでは、と思いました。
    原理的に他者の心を理解しきれないという前提があるとすると、理解という言葉は本来対人に通用しきらないものかもしれませんね。あるいは理解自体が「ある」程度というニュアンスを含んでいるのかも。

    ただ、理解する/されている という相手からフィードバックがないと、安心感はないかもです。対人にとっては安心感が理解の目的なのかもしれないと思いました。