「作る」とは?(2015年1月24日)

~告知~

カフェ・ティグレ
カフェ・ティグレ

■ 日 時: 2015年1月24日(土) 10:00~11:30

場 所: カフェティグレ伏見店

    (名古屋市中区錦1丁目10-11、ユーキホテル1階)

     地下鉄「伏見駅」10番出口より徒歩1分

テーマ: 「作る」とは?

進 行: 井下賢一

参加費: 飲食代実費(390円~)

定 員: 15名

申 込: 不要 (ですが、人数把握のため、事前に参加のご意志がある場合はなるべく参加申込みをお願いしております。)

申込が13名に至りましたので、申込受付を終了させて頂きました。残っている2席は、申込したのにそれがスタッフに届いていない方(ホームページ不具合の影響)や当日飛び入り参加の方が現れたときのため、

空けておきたく。ご理解のほどよろしくお願い申し上げます。

なお、当日飛び入り参加ももちろん歓迎なのですが、こうした事情から、当日参加の方にはお席を確保できるという保証ができませんので、予めご了承ください。

 

問合せ/申込先:staff.nagoya*cafephilo.jp (*を@に要変換)

 

備考: 

① 100円程度の寄付を参加者有志からうけつけています。(募金する/しないも金額も自由です。詳しくはこちらを)

② 当日は、参加者皆さまのご許可をいただいて写真撮影(ホームページその他での報告のため)と対話の録音(研究のため)をさせて頂いております。。

 

《ご案内》

物作り、人作り、町作り、若作り、…。私たちは様々な「作る」に関わっていますが「作る」とはどんな行為なのでしょうか?「建設的」という肯定的なイメージをもつ一方、「作為的」という否定的なイメージもあるようです。「作る」とはどういうことなのか、みなさまとともに考えていきたいと思います。

初めての方も歓迎です。どうぞお気軽にご参加ください。

《お願い》

  1. よろしければ、当日の対話で議論してみたい論点や質問してみたい疑問などの提案がありましたら、下記フォーラムにお書き込みください。匿名にして、当日の配布資料にさせて頂いたり、進行の参考にさせて頂くかもしれません。
  2. カフェ参加者によるレビューを募集しています。応募いただいたレビューは次回参加者に配布するほか、本HP上(下記)やカフェフィロブログに掲載させていただくことがあります。詳しくは「お問合せ」にてお尋ねください。

~記録~

哲学カフェの様子

~フォーラム~

以下の掲示板は次のようにご利用ください。

 

《開催前》

よろしければ、当日の対話で議論してみたい論点や質問してみたい疑問などの提案がありましたら、こちらにお書き込みください。匿名にして当日の配布資料にさせて頂いたり、進行の参考にさせて頂くかもしれません。

 

《開催後》

カフェの最中に言い足りなかったこと、言い損ねたこと、カフェが終わった後から思ったこと、など。もしありましたら、気楽にお書き込み下さい。

 

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コメント: 1 (ディスカッションは終了しました。)
  • #1

    山方 (金曜日, 23 1月 2015 04:27)

    24日は残念ながら参加できません。今回のテーマ「つくる」はシンプルですが、哲学の根本問題ですね。当日どのような話題やテーマになるかは楽しみです。論点について書きます。
    「つくる」を「原材料や素材をもとにして、それらに働きかけて、他のものに意図的に変えること」とします。
     現代的なものづくり、ひとづくりの文脈で「つくる」ということを反省してみると、以下の一連の流れが含まれていると思います。
    (1)作りたいという動機がある。課題や問題意識やミッションがある。(2)作るものの目標となるものやビジョンやアイデアがある。(3)作るための人・モノ(素材や道具)・金・知識(情報)・時間がある。なければ調達する。(4)狭義の「つくる」働きかけがある。試行錯誤を含めた手順を考えておかなくてはいけない。(5)つくる活動の結果として、素材と異なる新しい性質や働きや形がある成果物ができる。
    この定義は「生産活動」がモデルで、趣味の日曜大工や退屈なひまつぶしや衝動的なまたは芸術活動などとどう異なるかは検討外です。悪しからず。

    論点ですが、
    ①世界は「あるがままの自然」なのか、神や超越的存在によって「作られたもの被造物」か②世界や社会の在り方は「設計」したり「つくる」ことができるのか。(社会主義・アベノミクス・教育)②の2、社会の在り方を作ることは傲慢かつ危険なことではないのか。③つくるための自由意思はあるのか。作らされているのではないか。④なぜ作ろうとするのか(他の目的で使用するため、他者から評価されるため(競争心)、売って利益を得て生計を立てるため、作ること自体そのプロセスが楽しいため、作るスキルをあげる向上心のため、人から頼まれて断れないから、他者の役に立ちたいから、遊び、ひまつぶし)⑤作ることだけを単独で考えてよいのか。(環境問題、ゴミ問題、資源・エネルギー問題、倫理的問題(表現の自由としてイスラムの風刺画をつくることが殺害事件にまで発展することもある)⑥⑤との関連で「つくる」ことは同時に生態系の「破壊」であり、他者に税金の負担をかけることである)など多義的ではないか⑦つくることの派生問題に製造者に責任はあるのか(修理・維持などメンテナンス、使用して傷害を与えたりした場合の治療代。慰謝料)⑧どこまで創造なのか?著作権などもあるが、模倣や学習や文化の継承なしに創造はあるのか。パクりは悪いのか⑧作ることは良いことか?核兵器・原発を作ること、クローン人間あるいは人間と動物の遺伝子混交など新人類の創造(漫画チックですができないわけではない)が出来るがしてよいことか⑨作曲や小説を書くことと、会社の工場の生産ラインで指示命令を受けた仕事として作ることはどう違うのか⑩つくることに追われている働き方や暮らし方は幸せか?生産中心社会では、無駄な時間を削り効率を追求されるが、障がい者差別や管理社会の息苦しさなどを産んでいないか?つくらないことが価値となる社会は構想できないか⑪造られたモノ=フィクションは、造られていないもの=リアルより価値が低いのか⑫わたしたちの暮らしはどこからがフィクションでどこからが自然=リアルなのか区別がつくのか⑬わたしたちが考えていること、対象を認識したとか知ったとおもった知識なり観念そのものが既にフィクション(つくられたもの)ではないか⑭山脈や海あるいは扇状地や三角州などの大地形・小地形はつくられたものか?誰が造ったと考えるのか?主体がないときにつくるということはあるのか?⑮宇宙をみて自然を見て、宇宙を造り自然の摂理をつくった神や人間を越えた存在を想定することはおかしいことか