教育の目的は何か

(2015年9月6日)


~告知~

カフェ・サンラファエル
カフェ・サンラファエル

■ 日 時: 2015年9月6日(日) 13:00~15:00

場 所: カフェ・サンラファエル

    (名古屋市西区名駅2-11-8 ファーストビル大樹1階)

     地下鉄「名古屋駅」1番出口より北へ徒歩5分

テーマ: 教育の目的は何か 〔参加者提案テーマ〕

進 行: 井下賢一

参加費: 飲食代実費(440円~)

定 員: 13名

申 込: 不要 (ですが、なるべく事前にご予約ください。定員に達し次第、申込みを締切ります。)

お陰様で当日参加分も含め満席となりました。

そのため直接お越し頂けてもお席のご用意ができないことがあります。

皆様には大変ご迷惑をおかけましますが、ご理解とご協力の程お願い致します

問合せ/申込先:staff.nagoya*cafephilo.jp (*を@に要変換)

備考: 

① 100円程度のご寄付をお願いしています。(強制ではありません。詳しくはこちらを)

② 写真撮影と対話の録音をさせて頂いております。NGの方はお申し出ください。

 

《ご案内》

人はなぜ教育するのでしょうか。そして、なぜ教育を受けたり、受けさせたりするのでしょうか。
一面では、教育は社会に有用な労働力を生産するためであり、教育機関は労働力の生産工場という見方もできそうですが、教育をしたり受けたりする側から見ますと、どこか腑に落ちないところがあります。
今回は教育の目的について、みなさまとともに考えていきたいと思います。
初めての方も歓迎です。どうぞお気軽にご参加ください。

 

~記録~

取材記事

東京新聞/中日新聞 2015年9月13日(日)朝刊 社説

“文系不要論”の愚かさ 週のはじめに考える


取材記事に対するカフェフィロ代表 松川絵里さんのコメント

東京新聞の社説に、哲学カフェ」(2015年9月13日)

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報告です。先日9月6日(日)、雨の降りしきる中、哲学カフェ「教育の目的は何か」(参加者提案テーマ)を名古屋駅東口のカフェ・サンラファエルで開催しました。グループでのお申込みなどで一時は定員を超える状況でしたが、その後のキャンセルや当...

Posted by 哲学カフェ@名古屋 on 2015年9月12日

~フォーラム~

以下の掲示板は次のようにご利用ください。

 

《開催前》

よろしければ、当日の対話で議論してみたい論点や質問してみたい疑問などの提案がありましたら、こちらにお書き込みください。匿名にして当日の配布資料にさせて頂いたり、進行の参考にさせて頂くかもしれません。

 

《開催後》

カフェの最中に言い足りなかったこと、言い損ねたこと、カフェが終わった後から思ったこと、など。もしありましたら、気楽にお書き込み下さい。

 

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コメント: 26 (ディスカッションは終了しました。)
  • #1

    たつみ (金曜日, 21 8月 2015 13:21)

    この世界には、教育しないと言ってよいかわかりませんが、<教える>ということをしない文化をもつ社会があると文化人類学の本で読みました。日本のある領域での技や芸などを師や先達から<盗む>ことの推奨や評価も似ているのでは。それ自体も伝統的に暗黙裡に教育されているとも言えるのかもしれませんが。 

  • #2

    鞠水 (月曜日, 24 8月 2015 13:47)

    教育の目的とはと考えた時に
    「迷信」というキーワードがあります
    恐らく迷信を排除する事も目的のひとつでしょう
    では「迷信」はどこから生まれるのか?
    それは「教育」からくるのではないでしょうか
    知識の伝播を教育とするならば
    その情報が誰にとって正しいかは別の話である
    「祟り」は迷信の形態のひとつです
    「関わると良くないことが起きる」
    対象は様々ですが無謬を基本としています
    愚かな行為と思われる人は多いでしょう
    里山を歩いていると
    人が近づくと危険な場所や
    山を切り開くと災害につながる場所が多くあります
    新しい教育により迷信から解放された人たちの中には
    開発により経済的に成功した人もいます
    自然災害と呼ばれるものには人災が多くあります
    祟りを恐れる愚かな人たちが近づかなかったところに
    今では多くの人が住んでいる
    どちらも教育の果実ではあるのでしょう

  • #3

    (月曜日, 24 8月 2015 17:49)

    教育がいつ、どこの地域で発生したかはわかりませんが、日本に限っていいます。おそらく、教育の目的は、経済的な意味も含めて、社会で通用する人間を育てることにあり、知識内容や作業内容は、その心を伝える手段だと思います。知識内容に関しては、その時々の学問的な水準を、常識的なレベルに編集したものだと思います。

  • #4

    鞠水 (火曜日, 25 8月 2015 12:48)

    教育を考えた際に
    そうじは有効な手段なのでしょうか?

    毎日同じ場所を雑巾がけしていると
    自分の心の状態が見えてきます
    気分が高揚していると同じ場所が狭く感じ
    落ち込んでいると広くて終わらない気がします
    では気持ちを切り替えれば感覚も変わるのか?
    その時変えれる範囲の落ち込み方なら有効ですが
    ダメな時にはどうにもなりません。

    これをもしテストに使うとしたら?
    この文章をそのまま書いた人は不合格です
    体験の伴わないことに意味はありません
    では3日間そうじしたとします
    30日なら?
    不合格です
    300日なら?
    不合格です
    3000日なら?
    これも不合格です
    自分で出した答えではないのですから
    では採点基準は?
    ありません
    その人の心の状態しだいです
    判断できる人には判断でき
    判断できない人には判断できません
    したがって師事する相手を誤ると取り返しはつきません
    理解できない場合には言葉で説明してくれますか?
    答えを先に知ることは
    答えに到達する遠回りになる可能性が高くなります
    あれこれ考えながら行うことは
    迷いの道と言われています
    ではどうすれば良いのか?
    なにも考えずに続けるしかありません
    ある人はずっと合格がもらえず
    別の人はとくに理由もなく合格するかもしれません
    不平等に見えるかもしれません
    本当にそうなのですか?
    同じことをできれば合格になることが平等なのでしょうか?
    人はそれぞれ個性的なのに
    目的は?
    あなたがやり続けてある境地に達すれば判ります
    それは教育なのか?
    少なくとも2500年以上は続いてきていますから
    教育という言葉よりも昔から存在しています
    とても怪しくて胡散臭く感じます
    それは正しい判断だと思います
    でも考えてみて下さい
    あなたの考える教育の目的は
    その教育を理解できていない人に対して
    説明して判るものなのですか?
    誰にでも説明するだけで判ることならば
    教育とは必要なのですか?

  • #5

    鞠水 (木曜日, 27 8月 2015 19:41)

    教育の目的は善悪の判断でしょうか

    子供に読み書きを教える
    これは教育ですね

    兵士に武器の使い方を教える
    これも教育ですね

    子供に武器の使い方を教える
    これも教育なんでしょう・・・

    兵士に人の殺め方を教える
    子供に人の殺め方を教える
    これも教育ですね

    学んだ事の実行を求める
    これも教育でしょう

    学んだ事に誤りがないか考えさせる
    学んだ事に誤りがないか考えさせない
    どちらも教育です

    教育の目的は善悪の判断の伝播であるのならば
    正しいと信じていることを教える行為といえるのでしょう


  • #6

    哲ーMETAL (金曜日, 28 8月 2015 20:48)

    個性的な教育論の後でオーソドクスで、理屈っぽいこと書くと興ざめかもしれせんが、悪しからず。
    「教育の目的」とは、「教育は何のために存在するか、教育するという行為は何のためにするのか」ということです。
    まず「教育」と「目的」について考えます。

    教育について、中核となる概念を定義をします。
    狭い意味での教育を「教える」とします。それは「特定の知識やスキルや価値観を持っている人が、それらを持っていないとされた人物に、伝えて習得させて人物の行動や態度に持続的な変容をさせる意図的な活動」とします。伝える側に主体があります。
    知識が伝わることには「学ぶ」こともあります。これは知識を得る人が他者の行動を模倣する=真似るという受け身ではない主体的な活動です。
    広い意味での「教育」は、この「教える」と「学ぶ」がそれぞれ見られ、どれくらい強いかで幅があるのではないかと思います。

    狭い意味での「教育」は、教える側の「意図的な行為」です。「教育の目的」を設定して目標を立てるのは教える側のすることです。

    「教育(する)」「教える」という言葉やそれが指す活動は抽象的です。修飾する言葉で限定して具体的なものとなり、そこに「目的」が明かになります。

    例えば、消費者教育、環境教育、人権教育、法教育、社員教育、学校教育、社会教育、家庭教育、新人教育、民間教育、福祉教育、エイズ教育、交通安全教育、など修飾する言葉がつくことで、目的、内容、対象、方法が明瞭になります。

    今回のテーマである「教育の目的」は、○○教育の○○がありません。明かでない目的を問い探求するとい不可能なことになっています。そのため語れないことを語るということ、教育の目的を語ることは(騙(かた)る)ことになります。語り手の前提となっている思想や価値観が表われると思います。

    「目的」とは何か?目的と目標を比較すると、目的は目指す的(まと・ゴール)であり、抽象的な理念や使命(ミッション)であり、目標は目的にいたるまでの目標(目印、マイルストーン)であり数値化したりできる像(ビジョン)です。
    教育の目的として表現されることの多くは、目標と混じり合っているのではないかと思います。

    話しを戻しますが、「教育の目的」を問うとは、数多ある「○○教育」の個々の教育目的の目的を越えた目的を問う根源的な問いになります。これは「本来性」「そもそもの始原に遡って」「目指すべき理想」とかを呼び込み騙りを招くと思います。

    長くなりましたが、「教育の目的」とは、語り手が「本来の教育とは」と、理想の世界観、人間観、社会観、規範や倫理、道徳観、宗教観を騙らせてしまうマジックワードではないかと思います。個人的な規範に留まらず、他者に強制する規範へと転化すると息苦しくなり、口論となり炎上する対立が起きます。

  • #7

    (金曜日, 28 8月 2015 21:07)

    教育について熱く語りあうとき、何を前提としているかを反省して自覚したり、相手が前提としていることを理解しなければ、議論がすれ違うと思います。

    例えば、ある人は親(保護者)が子どもへ向けて行う家庭教育(私的な教育)かもしれません。これは他者の干渉や介入を拒否する私事です。他者がとやかくいうべきではないとされるものです。正解や合意形成をして結論を強制できないわけで、ある意味では哲学カフェとしては何を話してもOKモード向きかもしれません。

    別の日とは、どのような社会/国家でありたいか(にしたいか)、どのような市民/国民の資質(シティズンシップ)が必要かといった公教育は、一つの価値観でまとめあげるのか、多様性や寛容を強調するかの社会/国家の理念や像をはじめ、個人の思想の自由や家庭教育(教育の私事性)とどう調整するか、論争的なテーマであり、対立を越えた議論をするための哲学対話レベルがよいかなと思います。

    「教育」という同じ言葉で話をしているつもりでも、話が噛み合わないものです。それを自覚するためには、哲学的な対話や哲学カフェをすることで「対照」(他のものと比べた時に顕著な違いを見つけだす)してみるのがよいと思います。

    さて、ある人にとっては無限定の「教育の目的」を問い答えることは、幼小中高大といった「学校教育法」第一条に書かれている学校教育の目的のことを考えています。塾/予備校カルチャースクール/習い事を含めていません。

    因みに、日本における学校教育については、上位方である教育基本法で「教育の目的」が規定されています。あまり、引用はよくないけれどご参考までに。
    (教育の目的)
    第一条  教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。
    (教育の目標)
    第二条  教育は、その目的を実現するため、学問の自由を尊重しつつ、次に掲げる目標を達成するよう行われるものとする。
    一  幅広い知識と教養を身に付け、真理を求める態度を養い、豊かな情操と道徳心を培うとともに、健やかな身体を養うこと。
    二  個人の価値を尊重して、その能力を伸ばし、創造性を培い、自主及び自律の精神を養うとともに、職業及び生活との関連を重視し、勤労を重んずる態度を養うこと。
    三  正義と責任、男女の平等、自他の敬愛と協力を重んずるとともに、公共の精神に基づき、主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養うこと。
    四  生命を尊び、自然を大切にし、環境の保全に寄与する態度を養うこと。
    五  伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。

    ①この目的や目標でよいのか、②教育の目的を法律で作ってよいかなど、ツッコミどころはあります。教育万能は教育によって管理される窒息感があります。放っておいて欲しいと不登校なのもよいかと思います。
    法律が正しい、法律を守る遵法精神がよいのではありません。
    自分の頭で公教育の目的の意義や効用と制約・限界を考えることが大切だと思います。

  • #8

    哲ーMETAL (土曜日, 29 8月 2015 06:03)

    迂遠ではありますが、搦め手から「教育の目的」を考察します。
    教育することに目的を設定するとどうなる事が派生して生まれているか結果から遡り目的を推測します。①評価をする尺度や対象が決まる②早く達成するために効率性を追求出来る③他者と比べて優劣を測れる④教育を自分一人でするのではなく他者と協力してする場合、目的は人を結びつける約束事でありまとめあげる組織体のアイデンティティとなる⑤目的外の教育活動を抑制できる理由に出来る⑥間違いや過失を目的と結びつけて合理化出来る。とりあえずここまで。性格がわるくなりそうです。

  • #9

    哲ーMETAL (土曜日, 29 8月 2015 06:30)

    小ネタ集です。
    ⑴教育の目的は、大抵抽象的にもほどがある!くらい抽象的ではないか。質実剛健、逞しい、生きる力etc。意味があるか?⑵公教育の目的は、利他的であり社会的である。ところが個別にみると利己的な目的で個人的な目的で学習や教育がされる場合が多い。どうつなげるべきか。⑶教養課程の廃止、人文学部の廃止がうたわれ、企業で役立つマナーのキャリア教育やワードエクセルの使い方を大学生に学ばせるベキという大学改革が主張される。熊本県知事は、女性にはサインコサインは学ぶ必要がないと性差別と実学志向を露見させた。具体的な目的にも程がある。ほどとはどの程度か?⑷自分で立てる目的と上から与えられる目的、話し合って決める目的など決め方はどうあるべきか⑸報酬を得る目的、無報酬の目的はどう結びつけるか⑹優れた目的や良い目的はどういう目的か⑺悪い目的や立ててはいけない目的は何か⑻目的外の成果は無駄として排除してよいか。実際のお役所仕事は排除しがちである。⑼非意図的な知識知識やスキルや価値の伝わり方が発達した。インターネットの噂やヘイトスピーチや映画や漫画やアニメである。教育の役割は目的はどうあるべきか(10)社会参加による学びや、哲学カフェ/哲学対話で起きている事は、知識やスキルや価値観を伝えることを第一義にはしない。ソクラテスの対話が問答法としてあざとく教育手法になったが、哲学対話は教育か?ある種の教育目的達成のための方法となるか?

  • #10

    鞠水 (土曜日, 29 8月 2015 12:37)

    教育という言葉は学校の歴史と共に生まれたのでしょうか?
    もしそうではないとするならば
    読み書きや計算よりも古いとするならばと考えてみました

    多くの生き物は群れ、あるいは集団をつくる
    それは生存上有利な戦略だから
    その集団を継続するためにはルールが必要になることが多い
    仲間を殺さないとか盗まないなどから始まり
    ルールは作られながら
    継承する必要、守らせる必要
    新たなメンバーへと伝達する必要などが生まれます
    これは教育と呼べるものかと思われます
    もしそうであるならば
    教育の目的とは
    生き残る為に群れを継続可能にするルールの継承ではなかろうか

    ルールの中に役割も含めるとするならば
    学問とは役割を果たすためのスキル
    高度な役割を果たすには高度なスキルが必要になる
    その部分を仮に学校教育とするならば
    学校教育は教育の一部であり
    教育はあらゆるグループで行われる
    自分たちが生き残るのに優位に立つ為の行為であるとも
    考えることもできるのでしょうか

  • #11

    哲ーMETAL (月曜日, 31 8月 2015 00:11)

    目的を決める場合に起きていることとその課題について(1)
    超ざっくり書きだしてみます。
    哲学について、「哲学とは長い間生きて積んできた人生経験の中で培ってきた智恵を語ること」といったとらえ方があります。教育の目的を設定するときに、この立場から各自の百花繚乱の「オレの/私の教育理念の哲学」が語られるわけですが、「哲学」の名の下に混乱しているカオスの世界の火に油を注いでいるとも言えます。フォーカスのズームを引
    問1 教育のステークホルダー(利害関係者)が誰か、誰がどのような立場で教育目的づくりに関わる資格があるのか考える。
     叩き台の案・・・現在の子ども/将来の子ども/親としての大人/親ではない大人/現実の国家(政府)/文部科学省の官僚/教育学研究者/企業(大企業)/民族/宗教/現実の社会/理想の社会/地方自治体/地域人材/地球/人類/エスニック集団
    問2 目的に含まれる「どんな人になって欲しいのか」について
      どんな人・・・リーダー/フォロワー/起業する人/従順に働く人/グローバル経済で活躍する人/国を批判できる人/国を批判しない人/政治参加できる人/社会に批判的精神を持って自立する人/国の経済発展に貢献できる人
      どんな資質・・・自主性、自立心、意思、協調性、卓越性、従順、愛国心
      どんな社会/国家にしたいのか
      経済大国/経済成長/政治大国/民族主義国家(一体性、統一性重視)/多様性のある国家/福祉国家/環境/人権保障
    問3 目的は国内外の社会状況の変化に対応して変更できるか、しやすいか?
    問4 その教育目的が嫌な人はどうしたらいいのか?
    問5 目の前の子ども(A)の教育目的を、その子どもが成長して将来どんな大人(B)になって欲しいかと、現在の大人(C)が決めるということをどう正当化できるのか?現在の大人だけが決めるのではなくて、子どもがA~Bに成長していく過程に成長や発達段階にあわせて自己の教育目的を決めるということがある。高校は一部で大学では自らの履修科目を選択することはよくある。履修科目ならぬ教育目的については12歳選挙(投票)権を認めるなども含めて決める当事者に加わってもよいか
    問6 教育目的は多数決で決められるものか?
    問7 教育目的は1つだけか?多様な目的があっていいのか?
    問8 教育の目的を法律で決めることのメリットは
    問9 教育の目的を法律で決めることのデメリットは

  • #12

    たつみ (月曜日, 31 8月 2015 13:39)

    いま何故ここで教育の目的が問われるのでしょうか。哲学カフェも一つの教育の場でしょうか。それとも反教育の場なのでは?そんな気もしているものですから。

  • #13

    哲ーMETAL (月曜日, 31 8月 2015 21:51)

    今回のテーマ「教育の目的は何か」の設定理由は案内文にかかれています。一般には、教育の目的は「社会に有用な労働力を生産するため」とされているようだが、腑に落ちないところがあるから話し合いたいという、テーマ発題者の社会の看取りと意見から出ています。ここには、学校教育として「教育」が使用されているようです。企業内教育や資格や検定などの通信教育や講座などが入っているかは微妙かと思います。
    学校教育を全肯定もしていませんが、反学校論や脱学校論の立場もなく、フリースクールやホームスクーリング(義務教育を学校で受けさせず家庭学習だけで行うこと)を提案もしていません。

    公立も私立も学校教育を制度化する理由として、労働力育成が挙げられることは確かだと思いますが、労働力育成だけの理由をあげることはありませんし、他の理由も沢山挙げられます。

    労働力育成を目的とした教育はありますが、教育現象があればそこには労働力育成の目的が必ずあるわけではないということくらいまでは、テーマ設定の理由からは読みとれます。それが教育を受ける側の違和感の由来であり、その探求も一つのテーマへの応答かと思います。

    哲学対話或いは哲学カフェは、子どものための哲学として学校現場で取り組まれている学校や教員が実際におられます。

    哲学カフェが市民性=シティズンシップを育んでいるということが言われています。

    それはスポーツが遊びや競技から体育に、給食が食育にと学校教育に取り入れられているのとある意味同じと思います。

    学校に取り入れられても、野球やサッカーはゲームや遊びや競技てして行われ続けています。

    大人の哲学カフェを教育の場にすべきという意見は聞いたことはありません。哲学カフェは結論を出さない、合意形成しないため、意図的に知識やスキルや価値観を伝えるには向いていませんし、また唯一の正しい知識を教えこもうとしたら、哲学カフェには人が集まらず対話も起きません。

    哲学カフェの結果としてシティズンシップの発達に効果はあるけれど、効果を出すための手段として哲学カフェを行うのは、哲学カフェの在り方を損なうということかと思います。

    遊びや競技は、反教育の立場とか教育など意識の想定外であり、哲学カフェも遊びや交流でありこそすれ教育や反教育という囚われになっていないのではないかと思います。

  • #14

    哲ーMETAL (火曜日, 01 9月 2015 05:52)

    「教育の目的とは〜」の述部に言葉を足して文章を完成させるとします。いろいろ考えられます。
    「教育の目的は、教育内容、教育方法、大切にする価値などを決める」という文章を作るとします。
    ある学校が教育目的として、受験勉強をして、より多くの生徒を国公立大学に合格させるを第一に掲げるとします。すると教育内容は、受験に出題される問題を解くために必要な知識の習得と正解率をあげるスキルアップのためのテスト志向であることとその内容を決めるのは教師主導になります。教育方法は、教師が一斉に講義を一歩的に行います。
    哲学カフェや哲学対話には、教師がいません。ファシリテーターがいます。ファシリテーターは教えるのではなく、進行したり、議論を活発にしたり、整理したりします。とはいえ、他の参加者と異なり議事進行とかに介入できます。
    p4c(philosophy for children)といった哲学実践は、教師が児童生徒を指名したり、テーマや内容を方向づける役割を全面に出さない、教えるー教えられる、命令するー従うといった権威や権力関係がない対等な関係を作るためにコミュニケーションボールといった小道具を使います。ボールを持っている児童生徒だけが発言出来ます。コミュニケーションボールの受け渡しは生徒どうしがします。特定の誰かがファシリテーターとして進行せず進行はこどもに任されます。
    長くなりましたので、大切にする価値とかは端折ります。
    哲学カフェは教育の場ではありませんが、哲学カフェという、その場限りのコミュニティに「参加」して、ものの見方、対等な人間関係、話し合いの仕方、他人の話の聴き方、内省し自分の考えや感情や思いを言語にすること、などに参加者に持続的な変化がある場合、これは教育ではなく、他の言葉で呼び表した方が良いかもしれません。

  • #15

    鞠水 (火曜日, 01 9月 2015 13:02)

    教育は営利目的なのか?
    お金の流れを追ってみると見えてくるものがある
    教育を受けている側からすると営利目的ではあるのでしょうか
    長期的に考えて元が取れると判断しているので
    教育に対して時間やお金を投入している
    実績がある、あるいはみんながやっていることだから
    乗り遅れる訳にはいかない等が理由でしょう
    メリットがあるかデメリットを受けたくない
    教育を受ける側からすれば利益があると判断している
    提供側が組織であれば運営ができているのですから
    利益が上がっているといえるのでしょう
    中には純粋に学びたい、成長をさせたい人もいる
    その人たちが半数以上を占めていて利益が出ていない集団は
    おそらく全体に占める割合が少なすぎるので
    その他例外としてしまっても問題ないかと
    そして双方が帰属している組織の国や会社等も
    利益につながるので教育を施している
    しかも長期間安定して運営されているのですから
    理想的な投機対象といえるかと思われます
    教育の目的は生存率を高めること
    今の日本ではそれがお金と密接に繋がってる
    教育を学校などの教育機関が行うものとするならば
    目的はお金であると思われます

  • #16

    鞠水 (火曜日, 01 9月 2015 13:32)

    哲学カフェは教育なのか反教育なのか?
    私は正と反はベクトルの方向性の違いでしかなく
    同じものでしかないと思っています
    パリでの始まりをチラ見した感じでは
    哲学カフェは非教育ではないのでしょうか?
    ただしマルク・ソーテが行っていた「哲学診察室」を
    現在でいう経営コンサルタントと位置付けるならば
    経営者への教育といえるのかもしれないので
    教育者が始めた活動とするならば教育でしょうか?

    @名古屋の現状は
    やはり教育とは関係のない非教育が近いのでは?
    感じたことを学びとするかどうかはそれぞれが考えること
    その意味では参加者がそれぞれ決めることかも

  • #17

    鞠水 (水曜日, 02 9月 2015 00:19)

    教育の目的と考えたときに
    スポーツという存在を不思議に感じます
    スポーツマンシップにのっとり
    正々堂々と戦って勝てば褒められます
    ここにはルールという存在があります
    ルールがあるから平等に戦える?
    疑問が残ります
    ルールを決めた人たちが有利ですよね?
    もちろんその為にルールの見直しがあるでしょう
    その時に発言力の強い人が変更する訳ですね
    そしてどんなメンバーを集めるか
    (選手以外にも監督、コーチ、設備、補助要員など)
    それは資本力が大きくものを言います
    すごく有利な人と不利な人が平等に戦う訳ですね
    そしてルールは解釈により変動も可能です
    反則は審判が気がつかなければ反則ではない
    ある側から見れば卑怯に見えても
    勝者と敗者の関係は変わらない

    まあ
    人格を疑われるような言い掛かりではあると思います

    教育のメリットをもっとも受けれるのは?
    教育のメリットを知り抜いた人に教育され
    何度も失敗しても生活に困らない財力を持ち
    同じような境遇の仲間が多くいる人でありながら
    それ以外の人たちと平等であるかのようにみえる
    環境を作ることに成功した人たち

    などという妄想が現実にならないために
    教育はあるんですよね?

  • #18

    哲ーMETAL (水曜日, 02 9月 2015 02:33)

    スポーツの話を織り交ぜて論点がボヤけて解りません。
    スポーツや教育に内在的な問題があるのか、富や権力の配置に問題があるのか。

    ルールがある場合とルールがない場合とどちらが「平等」でしょうか。
    ルールがあるから不平等というのはそもそも成り立ちますか?
    誰もが真剣に打ち込んで楽しいのは「安全、安心、セイフティ」だからで、ルールがあるからではないですか。
    ナイフや銃を持ち込み、射殺や撲殺ありの野球やサッカーを安心して参加できるだろうか。
    資本力ではなく、それ以前の生身の暴力かと思います。
    スポーツの場合、体格や筋力で不平等な人間が「平等に」争うという困難な課題を、金持ちだろうが、貴族だろうが、民族や国籍に関係なく、ルールを決めて平等にルールを適用するというのが、あそやスポーツが成立する理由ではないかと思います。
    人間は規格が同じロボットではないのだから。
    七並べやポーカーのルールを
    権力や財力や暴力の強者がコロコロ変える暴力が支配する世界はありますね。これは、ルールは強者を縛る役割があることの証左にはならないでしょうか?強者が堪らずルールを変えるわけですから。
    ただし、それで弱者は楽しめるだろうか?それは遊びだろうか?遊びとしてのスポーツは成立するのだろうか。

    アメリカの大リーグは、プロスポーツの私事性を踏まえつつ、どの球団にも優勝する「機会の平等」を確立するため、球団の財力が反映しない工夫と、公共財として位置づけたところに日本との大きな違いがあると思います。

    日本のプロ野球は企業スポーツであり、テレビ中継の収入で断トツの某球団が金力で牛耳る現実がある。アメリカの大リーグはTV中継の収入はざっくり言えばリーグ全体で分け合う。比較して、日本のプロ野球は私物でアメリカの大リーグは公共物くらいの違いはある。
    しかし、これはスポーツのルールに内在する問題ではなく、スポーツや芸術を公共財として確立するか否かの違いであり、社会全体を「機会の平等」など公平なルールで動かそうという政治理念と運営の有り無しの問題ではないかと思います。
    日本の文化行政やスポーツ行政が周回遅れで未熟であるのは、自由や平等についての政治哲学的な議論や発想がないためと思われます。

  • #19

    哲ーMETAL (水曜日, 02 9月 2015 03:28)

    教育は各家庭の子どもが経済的・社会的に高い地位を得るためのもので、塾や教材などの教育費は子どもへの投資である、という発想が、強くなってきたと思います。利己的私事性が高くなり、自分たちさえ良ければ義務教育といっても公立学校は原則廃止して、全て私立にしてしまえという昔では考えられなかった発言が聞かれます。所得が低い家庭は公立などへ行くのは福祉の問題です。
    実際に親の所得が東大などの難関国立大や早慶など一部ブランド大への進学と相関関係が高まっている。
    これは「教育」そのものの問題なのだろうか?

    公教育制度に「教育の機会の平等」の役割を持たせるかどうか、
    自由な競争に任せるのか
    教育の目的をどこに置くか
    根本的に話し合い、考えて、決めないと、問題は教育の問題だけでは済まなくなると思います。

    長文失礼しました。




  • #20

    たつみ (水曜日, 02 9月 2015 19:05)

     戦後七十年のこの時点で、1945年を挟んで、それ以前と以後の二つの時期のこの国の教育(その目的)の歴史(変化と変わらずに持続するもの)を改めて振り返ってみるのも意味があるのではと考えました。

  • #21

    鞠水 (水曜日, 02 9月 2015 22:40)

    教育の目的を考えるときに
    私の立ち位置では社員教育が頭に浮かびます
    そして目的は会社にとって必要な知識を取得させること
    非常にシンプルで知識は非対称で会社に有利になっています
    これは会社対会社関係にも当てはまります
    力の強い会社は長期のスタンスで業界に対して
    文字通り自社に都合の良いルールを教育します
    会社対個人の関係でも該当するかもしれません
    会社→コマーシャル→個人
    イメージを使った刷り込みの長期戦略は
    教育ではないと否定できるのでしょうか?
    子供に対するものと考えてもテレビを利用した刷り込み戦略は
    とても効果をあげている教育といえると思います
    今の日本人がパンや肉を好んで食べることも
    数十年前からの食育の成果といえるのでしょうか
    教育の目的を考える際に成果が出たものを
    具体的に上げていくことは判りやすいのですが
    とても危険を孕みます
    都合の良い有効な実例をたくさん上げた側が
    話の方向をコントロールする可能性が高くなります
    誰かを教育するのが組織の形態をとっているのであれば
    個人の意思は組織の意に沿う範囲となるでしょう
    教育をする側の目的に腑に落ちないものを感じるとするならば
    それは当然のことなのではないでしょうか
    教育を職業とする方々の悩みも当事者なのに
    蚊帳の外にいることではないかと遠めに見て思います

    教育の目的とした際に
    受ける側と受けさせる側の目的が相反する可能性への仮説と
    読み飛ばして頂ければと思います。

  • #22

    毬水 (木曜日, 03 9月 2015 10:23)

    教育とは型にはめ込むことなのか?
    これは正直よく判らないといのが私の結論でしたが
    その時に付随して気が付いたことは
    教師は型はまっていくのではないかということです

    学校の先生や教師を目指す学生さんたちと行動を共にしている時に
    模様物会場やお店の店員さんからよく声を掛けられました
    「学校の先生は見ると判るのだけれど・・・・」
    接客をしていて職業を聞く機会があると
    一番判りやすいのは学校の先生です
    雰囲気や話し方から推測しやすい
    そして集団となるともっと判り易くなる
    そこに異物が混じっていると興味がわくのか
    「あなたも教師なのか?」と何人かに聞かれました
    私も興味がわいたので接客業の人と話す時に
    一番見分けが簡単なのは?と聞いてみると
    返答してくれる人の多くは教師と警察官と言っていました
    個人的にも同感だと思っています。

    全く教師と判らない人にも出会っているので
    データが偏っている仮説ですが
    もし教師らしい空気感?があるとするならば
    それは望んで身に着けていくものなのでしょうか?
    それとも自然とそうなってしまうものなのか。

    教育の目的とはズレているのかもしれませんが
    最前線にいる人たちに共通のパターンがあるのかどうかは
    気になるので記載してみました

  • #23

    鞠水 (木曜日, 03 9月 2015 22:30)

    点数をつけて評価することは教育の目的なのか?
    個人的には否であるがそんな側面も見えてしまう
    成績別に生徒を振り分ける必要があるので
    客観的に人の価値を決める必要が出てくる
    目標を決めて達成を求められる組織にとって
    逃れられない宿命なのでしょうか
    では判断基準からもれた能力には価値がないのか?
    愚問でしかないのですが
    価値とは換金できること
    この客観的で判りやすい判断基準に対して
    知識の価値は判断する人を選ぶ
    すると人の価値を点数をつけて判断することを
    教育の目標としてもらわなければならないのでしょうか?

  • #24

    たつみ (金曜日, 04 9月 2015 13:45)

    1. 教科としての「道徳」教育の目的をどう考えればよいのだろうか。

    2.選挙権年齢18歳以上引き下げは、教育現場では「政治的中立」との兼ね合いで困惑を引き起こしたことが報じられています。この問題は教育の目的の議論にはどのようにかかわるのだろうか。

  • #25

    鞠水 (土曜日, 05 9月 2015 20:55)

    教わるものと教えるもの
    学んでいるのは誰?
    得るものが多いのは誰?

  • #26

    きよしこ (日曜日, 13 9月 2015 21:40)

    開催後感想として…。
    今回のテーマは論点が絞りにくかったことも事実です。
    教育ーを更にテーマを絞り、皆様とより深い議論を交わしたいと希望します。
    個人的に特に関心が高いテーマを列挙します。
    1.グローバル教育とは何か。
    2.国際理解教育とは何か。
    3.家庭の役割とは何か。
    4.童謡唱歌の継承は必要か。
    5.愛国心とは何か。
    6.教養とは何か。
    7.大学の役割とは何か。
    8.親力とは何か。