実績は信用できるか

(2015年10月4日)


~告知~

カフェ・サンラファエル
カフェ・サンラファエル

■ 日 時: 2015年10月4日(日) 13:00~15:00

場 所: カフェ・サンラファエル

    (名古屋市西区名駅2-11-8 ファーストビル大樹1階)

     地下鉄「名古屋駅」1番出口より北へ徒歩5分

集合方法:場所に不安のある方は、12:45までにサイゼリア名古屋松岡ビル店の玄関前付近(地下鉄名古屋駅1番出口付近です。)にお集まりください。参加者のお一人(タカハシさん。40代の短髪の男性です。)が道案内してくださいます。もちろん、直接お越し頂いてもかまいません。

テーマ: 実績は信用できるか

進 行: 井下賢一

参加費: 飲食代実費(440円~)

定 員: 13名

申 込: 不要 (ですが、なるべく事前にご予約ください。定員に達し次第、申込みを締切ります。)

問合せ/申込先:staff.nagoya*cafephilo.jp (*を@に要変換)

備 考: 

① 100円程度のご寄付をお願いしています。(強制ではありません。詳しくはこちらを)

② 写真撮影と対話の録音をさせて頂いております。NGの方はお申し出ください。

 

《ご案内》

馴染みのない人や組織と関わるとき、相手を判断するのに実績に目を向けたりします。また製品や方法などの評価にも実績が重視されたりします。そもそも実績とはどのようなものなのでしょうか。それは正しく反映されたものなのでしょうか。そして実績を判断に用いることに問題はないのでしょうか。
今回は実績について皆さまとともに考えていきたいと思います。 初めての方も歓迎です。どうぞお気軽にご参加ください。

 

~記録~

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報告です。先日10月4日(日)哲学カフェ「実績は信用できるか」を名古屋駅東口のカフェ・サンラファエルで開催しました。中日新聞の社説記事(9/13朝刊)を読んで哲学カフェに興味をもっていただいた哲学カフェが初めての方を含め12名の方た...

Posted by 哲学カフェ@名古屋 on 2015年10月10日

~フォーラム~

以下の掲示板は次のようにご利用ください。

 

《開催前》

よろしければ、当日の対話で議論してみたい論点や質問してみたい疑問などの提案がありましたら、こちらにお書き込みください。匿名にして当日の配布資料にさせて頂いたり、進行の参考にさせて頂くかもしれません。

 

《開催後》

カフェの最中に言い足りなかったこと、言い損ねたこと、カフェが終わった後から思ったこと、など。もしありましたら、気楽にお書き込み下さい。

 

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コメント: 25 (ディスカッションは終了しました。)
  • #1

    哲-METAL (水曜日, 23 9月 2015 21:56)

    粗「実績は信用出来るか?」というテーマを考えるために、テーマ中に使われる言葉の意味を問い、とりあえず特定する必要を感じます。

    そもそも「実績」とは何か?
    先ず「実」には、中身があると確かめられた植物の実です。農作業の成果です。事実や真実という熟語のとおり事実や真実の意味があります。
    「績」は糸偏の漢字ですから「織物」由来の意味があります。手で織った織物という作品は文字どおり縦糸(経/歴史)と横糸(緯/人間関係や交渉)を織りあげてきたものです。織物の出来栄えをみれば、その仕事の良し悪しの結果が誰からも評価されます。そして、製作プロセス=経緯(いきさつ)が目に見えるものです。芸の匠さ、工夫、集中力、努力、かけられた時間、素材、職人芸、情熱、優しさ、思いやり、愛情などが露わになります。
    転じて、実績とは「人や組織とその人や組織の活動のプロセスや成果を評価する物差しの一つであり、虚偽やイカサマではなく、現実の/実際の/事実として/実質の中身や意味がある、ある分野における事業や仕事を高いレベルでコンスタントに継続してきているさまやその一連の成果物/業績のこと」を意味するとしてから、更なる問いを立てたいです。

  • #2

    哲ーMETAL (水曜日, 23 9月 2015 22:54)

    「信用する」には辞書的な意味もあるでしょうけれど、改めて問いを立てます。
    「信用する」を「信じて、用いる」と二段に分けます。
    信じるを考えてみます。
    先ず「素朴に信じる」なぜ?何か、本当かと問わない、疑わないことです。判断を停止し、疑い、問いを立てる哲学することと真逆ですが、これがないと社会生活を送れないレベル。この100円は実在するか、何故交換出来るのかと疑い買い物が出来ないのは頭の悪い哲学者かもしれません。
    二番目は、「判断を保留して疑って検証して主体的に能動的に信じる」。哲学した後の確信であったり、科学の方法が高いレベルになります。
    三番目は、宗教で神を信じる。あるかないか確かめられないけれど、全て投げ出す覚悟わやして主体的に決意して行う強い信じるです。

    実績を信じるという時は、この三つのどちらとも微妙に異なり何処か違う気がします。
    ①真実か事実か価値があるかを疑い検証するのは私ではない他人であること
    ②疑うステップの手間や時間を省略する実用性のあるもの
    ③「自発的に従わせる、信用させる」権威に近い

    「用いる」のはどういう時かも問いですが、物を買ったり、サービスを利用したり、入札業者の選定や転職市場やオーディションの面接試験などで、自己を売り込んだり、宣伝したりする場面などかなと思いました。

    「信用」は金融などでは、現金が伴わなくとも企業活動や経済活動が円滑に回るために、手形や小切手などの定期性預金/預金通貨や政府保証などで貸借する際に用いられますが、担保する銀行や政府があります。

    実績を信用するの「信用する」は、利便性がある時にという機会的というか、信じられるように見えるから、見える時だけという、受け身的な、限定的な行為と思います。

  • #3

    哲-METAL (木曜日, 24 9月 2015 05:55)

    「○○の実績は信用出来るか?」と特定の対象について問いを立て考えるのが一般的だと思います。
    また「実績はすべて信用出来るか?」という全ての場合を問うているならば、信用できない実績を一つ挙げるだけで反証出来て「いいえ、出来ません。なぜならば〜」で答えれば済みます。
    今回はま「実績は」と日本語には単数と複数がなく数量を示す修飾がないので、「何が信用できる実績て、何が信用出来ない実績ではないか」といった「線引き問題」から入り、実績といった曖昧な2次的な3次的な価値の物差しを問うたり、信用する/信用される/信用させる(騙す)/信用させられる(騙される)ことの前提を問うてみてはどうかなと思います。
    ①学歴(東大と駅弁大学といった学校歴も含む)②職歴(企業規模、肩書きそのものとして)③資格④学術誌への掲載⑤海外の有名な由緒あるコンクールで優勝や入賞⑥名古屋市内中学生大団体優勝(出場選手の場合と補欠或いはただのチームメイト)⑦町内カラオケ大会優勝⑧珠算二段⑨弁護士歴の年数10.帝国ホテル総料理長11.鉄道オタク25年12.大学サークルの部長13.面接試験や履歴書の意識高い系の活動実績14.二科展初出展14.二科展10年連続出展15.本を出版した16.全米観客動員○○1位とか総制作費○○億円の映画17.タウン雑誌にグルメとして取り上げられたお店18.ステルスマーケティング広告19.有名な芸能人ご愛用20.パイロットの飛行時間21.1000年に一人の美少女や岡山の奇跡といったアイドル

  • #4

    哲-METAL (木曜日, 24 9月 2015 06:09)

    書いてから気づいたけれど、「信用する」ではなくて「信用出来る」だから無反省や吟味せずにということはなく、疑うことや吟味することが前提にあるから、実績があるとされる対象だけの問題ではなくて、判断する人も含めた総体が問われてますね。
    疑い深い人には無理なあり得ない問いで、信じやすい人や依存心の強い人や深く考えずに飛びつく人には立たない問いです。
    中間の慎重な優柔不断の人にとってと限定して考えるということにしないと時間が足りないですね。

  • #5

    哲ーMETAL (金曜日, 25 9月 2015 16:19)

    ケーススタディをしたらどうか?
    「私は過去に100件のお見合いを成功させた実績があります」と言うお見合い仲介業者が、あなたやあなたの子どものお見合いの営業に来たとき、哲学者はどうツッコミを入れるだろうか?

    (1)口だけではないか?嘘ではないか?事実かどうか?
    (2)自画自賛の宣伝ではないか?
    利用者からの評判はどうか?同業者からの評判はどうか?
    (3)過去に成功したからといって、
    これから成功するか未来はわかるのか?
    (4)隠している不都合なことはないか?会員30万人で100組しか成婚していないとか、10000件の失敗があるとか。利用者からの不満はないか?
    (5)本当に価値があることか?
    他の業者が4000件のお見合いを成婚させた業者ばかりに比べたら大したことないとか。

    (6)実績があるのは、業者のちからに関係が低い場合はないか?例えば、成婚ケースは若い年齢で高収入イケメン美女の未婚会員同士が結婚したのであって、中高年バツ一子持ちの会員は少なかったとか。

  • #6

    哲-METAL (金曜日, 25 9月 2015 16:50)

    実績の問題点から考えてみます。
    (1)先発業者や中高年や経験者の優位性を強調しているため、誰に不利益なのだろうか?
    <例>新人(選挙に若い新人は政党の公認候補にはなりにくい)
    <例>昔の成功体験にこだわり過ぎて新しいことに適応出来ない。
    <例>創業寛永三年の和菓子屋さんは、今も美味しいか?
    (2)実績の物差しが使いにくいとか、怪しいのはどんな分野か?
    <例>新しい市場やフィールドで競争がなく比較対象がない場合。
    (3)異分野に応用される場合
    テレビのワイドショーで、タレント、スポーツ選手、「文化人」など特定の分野で「実績」がある方々が、社会問題全般を語ることは説得力があるか?
    (4)個人差がある多様性があることに適用出来るか?
    <例>「私は5人の子供を育て上げた実績がある」として、若いお母さん達に説教してよろしいか?
    (5)実績といったものより、オーディションや実技試験やインターンシップやトライアル採用など他のより良い物差しを併用しないとリスクが高いのではないか?
    (6)目的と手段が入れ替わることはないか?
    <例>大学入試にAO試験とか就職試験の面接に、ボランティア活動やサークルの代表とかが高く評価されるとします。学生時代をどう過ごしたのか実績を評価するためです。ところが、評価されるためにボランティア活動を行い、有象無象のサークルを作り自ら代表を務める意識高い系を生み出してしまうケースがあります。実績の評価基準が公開された後に、実績の在り方は変容して実績が測れなくなるパラドクスに陥っていないか?

  • #7

    たつみ (金曜日, 25 9月 2015 19:42)

      実績が過去の事実でしかない以上、将来は不可知な可能性を孕まざるを得ない。

  • #8

    哲-METAL (土曜日, 26 9月 2015 02:48)

    哲学カフェ@名古屋にはどんな実績があるのか?「ない」も回答の一つだが、何を挙げらるだろうか?
    ①自分で言うのはおこがましくないか?②結局自分の評価は他人がするのではないか?
    ③以前哲学カフェ@名古屋のパンフレットが自家製された。手元にないのですが⑴回数⑵参加者数⑶テーマ一覧⑷関係者、参加者のコメントetcだったと思います。
    ⑴回数は多ければいいのか?⑵参加者数は多ければいいのか?⑶テーマは数、種類、質、何を見てもらいたかったのか?⑷参加者のコメントにはクリティカルなものはあったか?賛辞ばかりか?⑸何かモレはなかったか?

    成功した哲学カフェと失敗した哲学カフェの基準については棚上げしたいですが、失敗とか成功とか、良かった悪かったとか、興味深いかつまらなかったとか、夏休みの絵日記程度の感想があったとして、良かったという評価の哲学カフェがあることを実績とします。
    ④失敗は実績にはならないのか?失敗から学ぶことは評価されないのか?試行錯誤を実績として評価出来ないか?非難されたり嫌われたり物議を醸して注目されている実績と言えないか?無視される、話題にすらならないより非難されている方が実績ではないか?社会的な議論を招く表紙やポスターを作る出版社やファッション関係のメーカーもある。
    ⑤無難なこと、平均値、人並み、横並びの哲学カフェは実績か?

  • #9

    毬水 (土曜日, 26 9月 2015 11:22)

    職人の場合だったならば
    他人の仕事の能力の判断は自分でするものであり
    他人が判断する評価を当てにすることはない
    自分が培ってきた経験で立ち向かう
    信頼できると思った相手の判断が誤っていたら
    それは人を見る目がなかった自分の責任である
    周囲の人も同じようにその人の失敗と判断する
    判断できないのは経験と知識が足りなかったから
    至らないのは自分の責任である

    実績には自分で触れて判断する
    その部分が抜け落ちている気がする
    もっと他人を経由した
    知識も経験もないことを判断する材料
    博打の勝率を上げるための情報を探しているような
    どこか無責任な響きを感じてしまう

    自分の目で見て手で触れて判断することと
    他人の目を通した情報で判断すること
    面白そうなテーマです

  • #10

    哲ーMETAL (土曜日, 26 9月 2015 20:48)

    問いの立て方を変えてみて仮説を立ててみました。 ⑴実績という言葉はいつから使用利用されたのか?この問いは哲学的でなく歴史学だが、歴史的な理由はわかる。 ⑵実績が求められる条件や環境に何が考えられるだろうか?①競争入札に参加する事前審査や資格としてならば、代理入札や技術が無いのに参加する事業者を予め除外できる。②特定の事業者に便宜を図るため。不正の匂いがします。③事業者が増えるなど選択肢が増えてきたため選択条件を絞りこみたいため。④消費者や発注者に選択や判断する力が低下したため。技術の進歩や高度化して理解困難になっている⑤広告会社や広告手段が発達した。広告の必須アイテム定番となった。 ⑶ 「実績」を口頭や文書でない意味で使う場合がある。すなわち、モデルやタレントさんが出演した作品や雑誌グラビア、建築家の建築物など確認出来るレベルのものは即時に実力や価値が判断出来る。実力を推し量る精度を高められる。⑷事実的な知識は暗記テストで判定出来る。しかし手続きや方法やスキルは「為すことによって学ぶ」身体に染み込む知識であり、マニュアルにない現場対応力の「ノウハウ」は経験でしか身につかないと考えていて「実績」は経験値を図る手段とみなしているから。

  • #11

    哲ーMETAL (土曜日, 26 9月 2015 21:28)

    実績が裏切られたケースから考えてみたらどうだろうか。⑴実績のある某ドイツの自動車会社がアメリカでの排ガス規制対策の不正ソフトを用いたのが発覚した。⑵実績のある某日本の重電機メーカーが損失赤字を隠す不正をした。・・・。似たような事件は後を絶ちません。実績をゼロか100かとか信用出来るか出来ないかどちらかといったフレームで考えて不信感に陥るよりも、人間には不正を止められないし、ヒューマンエラーもあることを前提にして、実績を他の実績で保証するとか、実績の信頼度を高めるとか規範を維持する懐の深い二枚腰が必須ではないか?例えば、CSR企業の社会的責任の国際規格ISOの認証といった実績とか。

  • #12

    哲-METAL (日曜日, 27 9月 2015 07:12)

    <1>実績は、どんな場面で姿を表すか整理します。
    ①売買の消費で売る側は買わせる為に買う側は安心して買う基準に、②選挙などで立候補者が当選回数や議員年数や役職をPR③企業内の昇進や給与などの待遇、④文化芸術スポーツ活動などの作品の価値や殿堂入り人間国宝、⑤その他。
    <2>それぞれの場面で、「実績」以外に判断する手段などに何があり、それらがどのように役立てられるかの重さの強弱によって「実績」の重さが違うのではと想定します。多義的で曖昧な「実績」は言葉の使い手や聴きての間でズレている可能性を探ります。
    例えば①だと、売買では品質と価格が二大判断基準だと思います。❶大昔
    素朴な昔だと品質はリンゴや魚はいたんでいるかどうかは手に取れば解り、茶碗や筆や箪笥や包丁の使用価値やデザインなどの美的価値も「買い手側」に買う買わないの決定の主導権があります。実績は作り手や売り手が限られていたら直接解ります。
    ❷現代は野菜も肉も中国やブラジルなど海外から輸入されたり加工冷凍食品になると農薬や遺伝子組み換えなど手に取ったり匂いを書いても食べてもわかりません。安全基準を作っても遵守するかどうか不明です。危ういながら「実績」を求めます。その時テレビのコマーシャルで親しみのある俳優さんが勧めていたとか、みのもんたが身体にいいと言ったとか「知名度」や「ブランド」などマスコミュニケーションの影響が実績に取って代わりました。また美味しいかお土産にしていいかの実績は専門家や美食家などの権威や格付け機関のフィルターが産みました。
    ❸ネット社会または高学歴化
    食べログなど、「口コミ」といった原始的な素朴なコミュニケーションが復活し、誰もが実績があるかのように発信します。専門家や格付け機関の独占的立場もない。権威の希薄化や実績の流動化が起きていると感じます。
    その他の分野には、固有の状況があり一概には言えません。実績を語り合うとズレるのは、しかし哲学カフェではある時は不毛であり、ある時は新しい見方を得られるチャンスだから良いかとも思います

  • #13

    毬水 (日曜日, 27 9月 2015 12:37)

    実績という言葉を考えていると
    ルールと点数というキーワードが浮かんでくる
    自分では評価ができないものに対して
    他人に評価をしてもらうのであれば
    ルールとそれに対する点数化が必要となる
    すると妙な存在が姿を現してくる
    ルールがあり点数が付けられるのであれば
    最高の点数を目指せば評価は高くなる
    しかし最高の点数のものが一番優れたものなのかというと
    疑問符を感じざるを得ない
    そのルールを受け入れない人にとっては
    信頼できる実績とはならない

  • #14

    たつみ (月曜日, 28 9月 2015 18:14)

     ここがロードスだ。ここで跳べ。というよく知られた言葉が(あるいはそれに纏わる話が)ありますね。幾らロードス島での跳んだ「実績」について語られても、その「実績」は信用できないが、ここ(目の前)で跳んで見せてくれればこの実績は信用できる??

  • #15

    哲ーMETAL (火曜日, 29 9月 2015 02:38)

    イソップの寓話は、ロードス島で跳躍の競技の遠征から帰ってきたばかりの、ほら吹き男の跳躍自慢だから、目の前で見せろ!になるのだけど。

    ①20年とか30年前の若いころの実績②跳躍のような単純な運動ではなくて道具や準備やお金や複数の協力者が必要な実験のこと③水泳ならプールとか「ここ」ではない他の場所に依存したこと など屁理屈こねれば目の前(時間と空間の限定)では再現出来ないことはあるかもしれません。
    「いま、ここ」とは限定した場所ではなくて、大阪でも愛知でもジャカルタでも「いま、ここ」と指示できる「何時でも、何処でも、誰でも」の意味と解釈して、STAP細胞の小保方氏のように、万能細胞を200回?作ったのが法螺咄でないなら、小保方氏が再現して作れとか、他の実験者が追試しても再現できるはずとするのでしょう。
    あの時には、再現出来ないからと言って、STAP細胞が出来ないと科学は証明出来ないと言うことも言われてました。即ち、実績には疑いをかけることは出来ても、「ないことを実験で証明出来ない」くらいは言えませんか?小保方氏は実績があることは証明できなかった。しかし、なかったことまでは証明出来ない。信用するかどうかの解釈しだいでは、科学哲学ではどうなりますでしょうか?

  • #16

    哲-METAL (火曜日, 29 9月 2015 03:39)

    実績を強調するとは、過去の自己の主張や行動の正しかったことの強調とします。過去の行為の肯定には過去の行為の結果である現在の状況や自己自身を肯定することも意味する場合がほとんどではないかと思います。因果関係はあるかないかは吟味しないと解らないし、他人の仕事を自分の手柄にする人もいますから。
    「実績は信用出来るか?」を「実績があると自ら主張する人物を信用出来るか?」という、およそ批判的思考や哲学カフェにあるまじき反則的な問いにしてしまいます。
    実績を強調して自慢する人より、まだまだ修行の身で未熟で不十分ですのでご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願いします、という感覚、現実を受け入れつつ現実を超える意欲がある方が信用されやすくはないでしょうか?
    さらには現実社会を変革したい志向には、実績を自慢するより現状不満が燃料になるのではないかと思いますが、どうだろうか?

  • #17

    哲-METAL (火曜日, 29 9月 2015 09:40)

    ここがロードスだ。ここで飛べ。

    ロードス島の話は、法螺咄でしたが、正真正銘の「実績」にも通用しない例を考えました。
    ①東日本大震災で避難誘導して多くの人を助けたという人に言えるか。②アポロで月面に行ったという宇宙飛行士に言えるか。③一日のセールスで記録的な販売をした人に言えるか。

    と考えだしたものは「継続してコンスタントに業績を積み上げてきて信用を得た」タイプの実績ではなくて、「非日常的な例外的な危急な時に、咄嗟の判断や一回性のもので再現困難な時の神対応や歴史的な快挙で信用を得た」タイプの実績と言えるのではないでしょうか。「実績」の定義を拡張し、薄く記述すればよいかと思います。

  • #18

    哲-METAL (水曜日, 30 9月 2015 00:13)

    信用出来るかと問われている実績を問い直してみます。
    「実績」とは、「人か組織が自由な意思を持って自立して判断決定して行動した」という「原因」があり、「顕著な良い成果があった」という「結果」があったということに言い換えられるとします。この主張の前提にある考えは、①自由意思②手柄を占有出来る根拠(独自性、自律性、独立性)③因果関係④勧善懲悪の価値⑤褒賞や顕彰によって人の行動を誘導出来る⑥⑤からは人は快楽を求めて行動をするという人間観⑦人や組織の行動をある意味で「性質」や倫理を比較して評価できる。前提には、あらゆる行為を神のような視点で把握できて、数値や量に変換出来て、測定できて、計算出来るということ、などではないだろうか?

    成果主義型人事制度や東京五輪エンブレムなどで問題化したことを哲学的な問いにしてみるとどうなるか?
    「そもそも実績なるものはあるのだろうか?」

  • #19

    哲-METAL (水曜日, 30 9月 2015 06:23)

    「俺の方が実績があるのに、どうしてあいつが出世して、俺は出世しないのか?」
    サラリーマン向け自己啓発本がバカ売れする原因はこれですかね。

    哲学することから離れるかもしれません。私事ですが、私は哲学カフェに沢山参加しました。いろいろな哲学カフェをしてきました。哲学することが好きだし、哲学カフェの展開にワクワクします。若い時に哲学を勉強していたのが就職で中断してしまい哲学と縁遠くなってました。いい年齢になりました。哲学研究者として実績をあげる残すことは不可能ということもありますが、プレッシャーも煩悩もないところで哲学を楽しめることは楽しい。他人の実績を評価するだけの公平で謙虚な気持ちや憧れや向上心は持ちたい。哲学カフェの世界で実績に拘り捕まり傲慢にならないようになりたい。ただ真理を追求し、根本的に知りたい、考えたいから好きだから哲学をしたいという初心は何歳になっても忘れたくない。
    実績は向上心を生む良い効果もあるが、自分を名誉欲や傲慢にし堕落させる毒薬にもなる。学歴、職歴、肩書き、哲学研究の専門的知識の有無、利害損得、権力関係なく集まる哲学カフェにとって実績はよく飼いならしたい事柄です。

  • #20

    哲-METAL (金曜日, 02 10月 2015 03:48)

    自分の実績は信用できるか?テーマ選択の理由には、「馴染みのない人や組織」を判断する際に実績に注目すると書かれていました?しかし、そこには「馴染みのある人」の実績については私たちはどのように、どの程度信用しているのかを予め解っているということを疑わない前提になってはいないだろうか?今回脱線しそうだからスルーしてもらっていい論点ではあるが、馴染みがある人と馴染みのない人を分けて考えてみると、それぞれ面白いかなと。馴染みがある人とはいえ、私たちは過去の経緯をどの程度しっていたのか?案外「実績」ではなくて「好き嫌い」で実績評価はバイアスがかかっていませんか?いくら素晴らしい仕事をしていると他の人が評価する実績も「あいつの実績など認めない」ということはないですか?人が人や組織を判断するのは「外に表れた行動」とか「直接的または間接的に因果関係がありそうな結果」で判断していませんか?「内面の動機や配慮や考察や思いやり」など解っていましたか?「偶然性」や第三者に迷惑をかけていたとか、第三者の支援や明示的でない協力に気づいていましたか?私は怪しいです。さらに一番馴染みのある「私自身の実績を私はどう評価出来て、さらに信用出来るか」も考えてみると面白いです。自分に甘い人や手柄を独占したり自画自賛したり、或いは実績が沢山あると思えるのにご本人が謙虚だったり自信が無かったり実績を否定したり。実績があるのに、毎回緊張したりあがったりすることもあります。ましてや馴染みのない人の実績については留保しつつ賭けているところや日常に埋没し自己自身を失うのが楽チンではないですか?

  • #21

    毬水 (金曜日, 02 10月 2015 19:26)

    会社などの組織の実績の場合
    実績を出した際に関わったメンバーが全員辞めた後も
    組織の実績として残ります
    そういうものなんでしょう

    ボディービルの筋肉
    流行っているようなのですが
    この場合の実績とはなんなのでしょうか
    ファッション?なのでしょう
    体に覚えさせる技術はいかに力を使わないようにするか
    筋肉に頼らないものといえるでしょう
    力任せとは技が未熟ということ
    実用性を伴わない鑑賞用の筋肉を整えるために
    気が遠くなるような時間を費やす
    それ自体は尊いことなのでしょう
    しかし他のことに置き換えて考えると
    外見を整えることに時間を費やすことは実績といえるのか?

    ファッションは実績といえるのか?
    これも実績となると思います
    ではデザインは?
    商品を開発する場合にデザインはとても重要
    ではそれをどう評価するのか
    また本体のデザインだけでなくパッケージは?
    本の表紙も重要な存在です
    製品は全く売れなかったがデザインはコンクールを受賞
    (実際にあるかどうかは知りません)
    実績とはいえますが販売には貢献できていない
    でも立派な賞をとれば立派な実績なのでしょう

    賞をとれば実績になる
    大手のモール型の通販サイトには
    様々な期間の色とりどりのランキングが存在します
    ランキング1位になれば売り上げがあがり
    売り上げが上がればランキングが上がりやすい
    消費者にも判り易いので重要視されます
    お金になるのですからランキングの競技?自体を増やします
    すると実績をもつ対象が増えるので売り上げが増えます

    お金儲けのために水増しされた実績は信用できるのか?
    その中からチャンスを掴んだ実力のある人は?
    判らない方向に進んでしまうようです。

  • #22

    なつめ (金曜日, 02 10月 2015 20:05)

    いつもにこやかに挨拶をご近所の人にしたといいうある人物の実績は、それ故にかれが殺人を犯さない人物だと信用するわけにいかないのが近頃です。。

  • #23

    哲-METAL (土曜日, 03 10月 2015 04:50)

    実績が全く信じられない、役に立たない世界を想定してみます。そもそも信じられないならば、人や組織を評価したり理解するために実績を知ろうとしない。また自己PRのために実績を伝えません。
    若い人ばかりの集まり、幼稚園、小学校、同窓会、家族、原始社会、哲学カフェ、退職した高齢者のサークルで過去の学歴や職歴を話すのはタブーな社交の場、そんな場が思いつきます。利害得失がないはずの人間関係、未知のことや今迄の知識や経験より勘と度胸や愛嬌(KDA)が役に立った時代ですね。

    全てがマネジメント経営の視点て考えたり、運営されてしまう現代の管理社会に汚染されていない社会の気もします。
    昔あったような、ノスタルジーがあります。効率悪いし、良い事ばかりではないし、特殊な場だし。案外気楽かもしれません。

    私は実績がありませんけど、何か?

    そんな場もあっていいですか?



  • #24

    なつめ (土曜日, 03 10月 2015 12:38)

     すでに指摘されている論点かもしれませんが、ある人物が、特定の狭い分野で専門家として質量ともに十分な優れた実績を持つが故に、それとは異質の、その人物がそれまでに十分な経験も実績も持ったと見做しうる必要十分な根拠を欠く異分野の異質の職務に就いて、そこにおいても、これまでと同程度に十分優れた実績を挙げ得るだろうとする希望的な判断は、専門分野での実績への信用は疑えなくても、間違いである可能性が大いにあり得、信用できない。

  • #25

    きよしこ (日曜日, 04 10月 2015 07:46)

    実績と信用についてメモ書き。
    本日参加できず、代わりにメモを残します。

    実績は評価指標
    成績表
    選択基準
    肩書き
    安心感
    とっかかり、きっかけ

    100パーセント信用はしてはいない。
    信用してはいけない。

    企業…大企業や有名企業は実績の裏に利権や利害関係がからむ。
    病院…組織…難しい治療ほど実績に頼る。
    命に関わるものは実績は頼りたいもの。
    一人の医師…この医師のこれまでの実績は医師個人のものであるから、より信頼度は高い。

    実績の対象が企業…ネームブランドのみで、商品そのものの魅力より、会社で選ぶ場合がある。
    実績の対象が人、例えば医師…技術はもちろん、人柄や、患者家族への対応など、実績以外の人物そのものも加味される。

    実績ばかりに頼ると、新しい芽をつみがちになる危険性がある。
    企業の製品しかり。
    スポーツの代表選考基準しかり。選考対象の大会で好成績を修めた選手でも実績がないばかりに、その選手より下位の成績を修めた実績あるベテラン選手を選考する場合が多々ある。ではその実績を買われたベテラン選手が国際大会で期待に応えるかといえば、必ずしもそうではなく、むしろ選出したことに疑問がくすぶるという事態も過去に何度もある。

    実績とは、つまるところ、期待か。
    大いに参考にさせていただくが、100パーセント信用はしていない。

    実績を買う、買われる。というが、
    実績を信用する、信用される、とは言わない。

    実績を買う、買われると言われます。
    実績を信用する、信用されるとは言わない。
    では、実績を買うの買うとはどういう意味か。→尊重する、高く評価する。