長生きはめでたいことなのか?

(2015年11月21日)


~告知~

カフェ・ティグレ
カフェ・ティグレ

■ 日 時: 2015年10月17日(土) 10:00~11:30

場 所: カフェティグレ伏見店

    (名古屋市中区錦1丁目10-11、ユーキホテル1階)

     地下鉄「伏見駅」10番出口より徒歩1分

テーマ: 長生きはめでたいことなのか?

進 行: 三浦隆宏(カフェフィロ)

参加費: 飲食代実費(400円~)

定 員: 15名

申 込: 不要 (ですが、なるべく事前にご予約ください。定員に達し次第、申込みを締切ります。)

問合せ/申込先:staff.nagoya*cafephilo.jp (*を@に要変換)

 

備考: 

① 100円程度のご寄付をお願いしています。(強制ではありません。詳しくはこちらを)

② 写真撮影と対話の録音をさせて頂いております。NGの方はお申し出ください。

 

《ご案内》

ある新聞の投稿欄に寄せられた83歳の男性の問いかけに、多くの反響が寄せられたそうです。
「介護を受けて寝たきりになり、排泄もままならない日が来たときには、介護を拒否し、安楽になることを願う」というこの切実な声に、私たちはどう応えたらよいのでしょうか。
当の投稿とそれに対する8人の読者からの応答をじっさいに読みながら、みなさんと考えてみたいと思います。

 

~記録~

Twitter速報

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~フォーラム~

以下の掲示板は次のようにご利用ください。

 

《開催前》

よろしければ、当日の対話で議論してみたい論点や質問してみたい疑問などの提案がありましたら、こちらにお書き込みください。匿名にして当日の配布資料にさせて頂いたり、進行の参考にさせて頂くかもしれません。

 

《開催後》

カフェの最中に言い足りなかったこと、言い損ねたこと、カフェが終わった後から思ったこと、など。もしありましたら、気楽にお書き込み下さい。

 

下記に コメント:n となっていれば、現在n個のコメントがある、という意味です。たくさんある場合、コメントは投稿順に並んでおり、入力欄はコメントの一番下にあります。(下記「コメントをお書きください」リンクで飛べます。)

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コメント: 31 (ディスカッションは終了しました。)
  • #1

    たつみ (金曜日, 30 10月 2015 13:46)

    結局、安楽死を、あるいは自他の安楽死の願いや決断を、どう考えるかという問になるのでしよううか。生や死、苦や楽の意味など・・・・

  • #2

    鞠水 (火曜日, 03 11月 2015 20:33)

    年をとることは特別なことではなく
    誰でも生きてさえいれば年をとります
    これははるかご先祖様の時代から変わっていませんが
    環境は大きく変化して
    長生きとは何歳からなのか?
    まずここが大きく変わったと思います
    そして比率が変りました
    昔ならば「お年寄りをみんなで大切に」だったことが
    今ではお年寄りが多くなったので
    「みんな」の中に高齢の方が含まれてしまう
    人数が少なかったので貴重だった年寄りの知恵が人数が増えたことにより
    価値が減ってしまったことに加えて時代の変化が早すぎて
    生活環境の変化についていけない人も多く
    貴重な知恵袋から情報弱者になってしまう
    核家族化で家族とも離れて暮らし
    身近に買い物をする場所もなくなり買い物難民となる
    昔のお年寄りの心の拠り所になりえた畑仕事も庭いじりも都会では贅沢となり
    誰かに必要とされる訳でもなく
    日常生活の買い物いにも困り
    現状を改善するための情報にもアクセスできない
    なにより体の自由が利かなくなってくる
    それはめでたいことといえるのでしょうか?

  • #3

    哲-METAL (土曜日, 07 11月 2015 06:25)

    「長生きはめでたい」について、問いを立て考えてみます。
    この命題の主部である「長生き」を「長生きすること」という動詞を含む形にしてみます。
    問①食べる、飲む、歩く、走る、投げる、遊ぶ、話す、座る、立つ・・・といった他の動詞とどこが違うのか?そのことと目出度さとの関係があるのだろうか?
    問2 述部である「めでたい」はどのような意味で使われるのか?

    答案1 長く生きることは、①自分の意志で②現在行う或いは生じている、動作ではない。長生きしたくても出来ないとか、長生きする気がなくても長生きします。食事や生活習慣など、長生きするための努力をしても実を結ばず、事故や病気で亡くなるものです。「長生きをする」は継続した状態について、結果として生きている状態であり動作でもありません。

    答案2 「めでたい」の類義語とその遠近やズレから考えてみます。「良い」「喜ばしい」「お祝いしたい」などにします。考察不足ですが悪しからず。次にどういう場合に「おめでとう」を使うのか考えてみます。「新年明けまして」の年賀。「ご結婚〜」「ご出産〜」 「優勝〜」「合格〜」「当選〜」などが浮かびます。共通点は「①稀少性があることに対して②運不運など偶然性に左右されやすい自由意志で出来ないことに対して③願っていることが成就したことに対して④他者に対して⑤他者が喜んでいる前提で⑥共に喜んでいる」くらいをあげておきます。

    問1と問2を合わせて考えてみると.、一般的に誰もが願っても得られない長生きをしたこと、出来た他者に対して、賞賛や幸福の気持ちを共に分かち合っている時に、成立していると思います。

    急いで書いたので考察不足かと思います。
    さらに前提を考えてみます。

  • #4

    哲-METAL (土曜日, 07 11月 2015 17:22)

    「長生き」を「めでたい」と考える前提をしばらく考えます。

    「長生き」を「生きること」✖️「良いこと」の積とします。そして「生きること=良いこと」であるならば、長い時間生きるほど、良いことは最大値になります。すなわち、長生きはめでたくなります。

    問3 上記の前提である「生きていることは良い」の更に前提を考えます。なぜ「生きていることは良い」のでしょうか?

    問4 「生きることは良くない」「生きるすさことを重視しない」ということはあるだろうか?

    答案3 これはこれで哲学や宗教の定番的テーマです。生きることは快楽か苦痛があっても快楽が増すからなのか。生きていると良いことがあるかもしれない蓋然性があるからか、「死後の世界はなく今生しかない」から、いろいろ考えられますが私の手に負えません。

    答案4 人生は全て苦痛である「.一切皆苦」であることは仏教では真理です。煩悩の炎を決して涅槃に至るには、さっさと死ぬ事も手段として良いのではと思われます。しかし臨終の仏陀は諸行無常だからこそ精進して生きなさいと言われていますから自殺は勧めていないと思われます。
    今生より死後の世界が永遠にあるならば、長生きすることより、殉教して天国にいく方が良いとする考え方がありえます。
    またハルマゲドンが早く来て、最期の審判の日が今日明日直ぐに来ることを信じて熱望する信仰心もありえます。ウヴアンゲリオンの世界です。

    長生きに対しては

  • #5

    哲ーMETAL (日曜日, 08 11月 2015 05:04)

    iPhoneの手打ちのため、入力ミスやら書き直しが残り誤字脱字で読みにくくなり失礼しています。

    問6 問4の関連ですが、「生きる」ことは「人は必ず死ぬ」「死ぬ」ことによって性格づけられています。「なぜ長生きをすることは良いこととみなされるのか?」の問いを「死ぬ」ことと関連させるとどうなるか。

    答案6 (1)死ぬことは恐ろしいこと・悪いことで、死ぬ時期が遅く延びることは悪いことに接近回避していてよいことだから
     それに対して、前記の通り死後の天国または輪廻転生または不老長寿である仙人を想定して死を恐れないか他の選択肢の存在を想定する手段もありますが、他の解として
    ①誰もが死ぬことなのだから、長く生きても死ぬことには変わりはなく良くも悪くもないのではないか?
    ②生まれることも死ぬことも私たちは意識できないから恐れる必要はない
    ③死ぬことを恐れすぎると悪いことだが、死を恐れすぎず受け容れることができるならばそれほど悪いことではないのではないか?
    ④人は既に死に向かって生きているとか、生と死を分ける基準は曖昧であるのだから死を恐れることは無意味ではないか。
    等の理由から生きることはやはり良いことだという反論もありえます。

    それらを踏まえてですが、なぜ、喜ばしいこととして多くの人からお祝いをされるかについて、補足します。生まれること、成人になること、年長者になるときには通過儀礼としてお祝いをするものです。喜寿とか長寿を祝う通過儀礼は、年長者を尊敬するという徳目によって社会秩序が安定するという社会安定の意味もあるかもしれません。

  • #6

    きよしこ (日曜日, 08 11月 2015)

    一番大事なことは単に生きること
    そのことではなくて
    よく生きることである

    ソクラテスの言葉です。

    たんに生きる
    ことと
    よく生きる
    こと。

    寝たきりや認知症など、人の手を介して生きること、その方にとって、
    たんに生きる
    ことなのか、
    よく生きる
    ことなのか。
    または生かされているのか。

    たんに生きる、とはどういうことか、よく生きる、とはどういうことか。
    たんに生きても、よく生きても、長く生きることはおめでたいのか。
    自分自身がめでたいと思うか、
    家族親戚第三者から見てめでたいと思うか。

    人生観
    死生観
    人によって考え方は違いますね。

  • #7

    鞠水 (日曜日, 08 11月 2015 23:54)

    長生きについて考えると「死」の定義に突き当たりますが
    死の定義は更に難しい
    長生きを現在している人はいるが死を体験して語ることができる人はいない
    では「生」?
    こちらの方が簡単そうですがどうでしょう
    生まれてくることは歓迎されているのでしょうか?
    本音は判りませんが建前上は歓迎されています
    しかし多大な努力を払って避妊もされている
    出生率のデータからは新しいメンバーが歓迎されていないといえるでしょう
    新しいメンバーが増えることを望んでいない社会は
    今のメンバーが永く留まることを望むのでしょうか?

    たんに生きる
    ことと
    よく生きる
    こと。

    人生の中の比率がどれだけであれば「よく生きた」といえるのか
    1回でもあれば良いものなのか?
    それとも「よく生きた」後に「よく生きれなかった」ことがあれば
    「よく生きた」経験は打ち消されてしまうのか?
    「よく生きた」と思っていたことが経験を重ねてみれば誤りだったと感じたら
    それは「よく生きた」経験とカウントされるのか?
    更に経験を積み重ねていくとやっぱり「よく生きた」経験だったとなったならば?
    考えなど変ってしまう可能性も考えられます
    「たんに生きた」経験の積み重ねが「よく生きた」経験に変化するかもしれない
    もし「よく生きた」経験ができるならば
    その経験から人生観や死生観は日々変っていくと推測されます
    年を重ねる程「生」の経験が増えて未知なる「死」への不安が増える気もします
    「よく生きた」と思えた経験が
    「よく生きた」時間を失うことの恐れにもなる
    「よく生きた」経験の多い人の方が「たんに生きる」ことへの恐れが強くなるのか?
    それとも「よく生きた」経験があれば無為に生きる時間から救われるのか

    「よく生きる」と「たんに生きる」の境目はいつも目の前にあるのに
    大半を残念な選択で進めてしまう
    その選択を悔やむのか受け入れるのか
    どちらを選んでも正解であり失敗でもありやり直すことはできない

    現在の医学ならば薬で「よく生きた」と思える精神状態にすることは
    社会的な制限がなければ容易にできるでしょう
    ではそれを継続することは良いことなのか?
    良くないとすればなぜ良くないのか?
    この問いは「長生きはめでたいことなのか?」と関係があるといえるのか?

  • #8

    きよしこ (月曜日, 09 11月 2015 16:55)

    上様

    素人には難しすぎて沈黙するのみです。
    しかも、この問いが長生きはめでたいことなのか、と関係があるのか、と最後に駄目押しされたようで…否定されたようで…深く傷つきます。

    ここは、常連の方々のみが語れる場ですか。
    素人にはあまりにも難解で、参加したことを悔やみます。
    まるで洗礼を受けたような。素人には、物事の本質に迫るより、茶のみ話が適しているかもしれません。

    哲学的な考え方を勉強してから出直すべきでしょうか。
    それにしてもこの問いは、我が事として真剣に考えずにはおれません。いや、テーマが与えられる前から考える日々でした。自分にとっては非常にタイムリーなテーマです。

  • #9

    哲ーMETAL (火曜日, 10 11月 2015 23:30)

    私が答えることではないとは思いますが、鞠水さんの書き込みの最後の「この問い」は鞠水さん自身の直近の問いのことを指していると私は解釈しましたので、きよしこさんの問いを否定しているとは思っていません。

    またこの掲示板は常連?だけが書くとはなっておりません。また、きよしこさんを素人扱いした文章もこの掲示板にはありません。こちらの掲示板の趣旨を名誉のために申し添えておかせてください。

    難解な文章は、頭の中を整理不足なのか、表現力不足でもありますからほめ言葉ではありません。稀に過去の有名な哲学者が詩的な言語で書かれて難解な場合がありますが、哲学カフェとその掲示板であるこちらは、お互いに分かり合えるように書き手が努力する場です。

    またきよしこさんの文章も含めて誰が言ったかが問題ではでなく。テーマについて一緒に考えています。そういうコミュニケーションモードです。一つひとつの言葉が自分に向けられていると感じられる必要はありませんよ。ともに哲学する仲間として認知されています。

  • #10

    哲ーMETAL (火曜日, 10 11月 2015 23:45)

    「長生き」がおめでたいことかどうか、今回の「認知症」および「介護」以外の下記の条件や状態の時にどのように考えてよいでしょうか。
    (1)心身の健康について
     ①がんと闘病している②病識ない統合失調症になった③病識がある統合失調症になった④寝たきり状態か歩行困難になっている⑥人工透析を受けるようになった⑦総入れ歯になり食べることが困難⑧健康でありピンピンコロリ(死ぬ直前まで健康で苦痛もなく死ねること)を期待できる
    (2)家族構成について
    ①未婚で一人暮らし②離別死別で一人暮らし③夫婦等二人暮らしである④孫もいて大家族がいる⑤同居の子どもがいる・いない⑥別居の子どもが居る⑦兄弟姉妹等親戚が近くに住んでいる・いない⑧家族がいても愛されていない⑨家族がいて愛されている
    (3)家族や近隣等の人間関係
    ①孫も同居する三世代の大家族だが子ども夫婦や孫と仲がよくない②家族は話し相手になってくれない③地域の人から気に懸けてもらっていない④趣味友達がいない⑤配偶者・古くからの友人知人が亡くなり記憶を共有する人がいない⑥親戚は遠いが近所の人と関係がよく気に懸けてもらっている
    (3)経済面
    ①貯金や資産などがあり経済的に自立している②貯金や資産などがない③年金などでわずかではあるが収入がある④年金などもなくほとんど収入がない
    (4)社会参加
    ①高齢であるが働いている③町内会や自治会などで地域活動をしている③趣味サークルに入っている④ほとんど家に閉じこもり気味である。
    (5)生きがい
    ①生きる意味や目標を持っていない②自分らしく生きていない③虐待を受ける来るなどの扱いを受けている。④周りに気がねして自分らしく生きていない⑤とくにこだわりがなくのんびりして生きている
    (6)制度
    ①医療の社会保障制度があり利用している②年金の社会保障制度があり受給している③介護保険制度があり利用できている⑤年金に入っておらず利用できない⑥介護保険制度が利用できない
    (7)文化
    ①高齢者を尊敬する文化があり、尊重される②高齢者を尊敬する文化がなく、「醜い」「汚い」と蔑視し差別する傾向がある③ユニバーサルデザインなど建築物や道路など高齢者が外出しやすいような建物がある④若者文化が主流で高齢者はのけ者扱いをされる
    (8)精神的傾向、自己評価をする傾向
    ①外向的性格で知らない人ともすぐに仲良くなれる②内向的性格でよく知っている人としか話せない③寂しさや孤独を感じやすい④一人暮らしに慣れていて寂しさを感じにくい

    他人に「あなたは○○で幸せですね。おめでとう!」と言うことに悪意はなくても、言われた人には皮肉に嫌味に聞こえたり、傷つけることがあると思います。
    また長生きした高齢者であっても、住んでいるのが、先進国/途上国、平和で戦争状態でない国/紛争地、など社会経済的な豊かさや政治制度の違いで、めでたいことかそうでにかは違ってきます。
    「○○であることは良いこと、おめでたいこと」という通念が多くの人に支持されるとしても、通念どおりではない少数者が存在することを肝に銘じて想定しておくことは大切かもしれません。

  • #11

    哲ーMETAL (水曜日, 11 11月 2015 01:57)

    今回取り上げられる予定の「ある新聞の83歳の男性の投稿」もそれに対する8人の読者からの応答も未読ですので、引用文を再掲して考察します。

    「介護を受けて寝たきりになり、排泄もままならない日が来たときには、介護を拒否し、安楽になることを願う」

     これは83歳男性ご本人がご本人のことを書いていますので、ああそうですかと呼んでしまいました。これが他人のことを書いたとなると話が別になると思います。すなわち下記のとおりです。

    「介護を受けて寝たきりになり、排泄もままならない人は、介護を打ち切り安楽死させるべきである。」

    これは、人間の尊厳とか安楽死というより、高齢者を生きている価値がないとする差別思想に近いですね。障がい者を殺したナチスに近い発想です。
    次に、今度はある家族の方の意見を下記に書いてみます。

    「介護を受けて寝たきりになり排泄もままならない私の愛する人(父母、配偶者、子どもなど)は、ただたんに生きているだけでいい。介護をしたい。その寿命が尽きるまで生ききって欲しい」

    この83歳の男性は、ご両親とか妻を介護されたことがあるのだろうか?その時に介護を拒否して安楽に死ぬことを祈っただろうか?今回は83歳男性ご自身がご自身のことを言っている。それでは、私の場合私の父母が高齢で介護で寝たきりになり排泄もままならない状態になったとして、そして私の父母が「介護を打ち切って安楽に死なしてほしい」と私に頼んだときに私ならどう答えるかということになれば、私は「私のためには生きてほしい」と答えると思う。自殺ほう助罪に問われるのが嫌とかいう理由ではない。愛する人には生きて欲しいと願うからである。

    83歳男性の前提を考えてみたい。
    ①介護を受けることは死んだほうがましの(精神的な)苦痛である。なぜなら・・・・
    ②寝たきりになることは死んだほうがましの(精神的な)苦痛だ。なぜなら・・・・
    ③排泄もままならないことは死んだほうがましの(精神的な)苦痛だ。なぜなら・・・・

    男性にしか解らないことだが、推測してみてはどうだろうか?
    ①身辺自立、生活自立志向が強い②自尊心が傷つく③介護を受けたら人生楽しくない④寝たきりになったら人生楽しめない④排泄などは他人の世話になりたくない⑤「自立」の定義が狭い。他者や他人に依存しあう「自立」観がない⑥介護されることを経験していないがための偏見がある。介護されたり排泄の世話をしてもらうことは案外思った以上に悪くないのかもしれないことを想定していない⑦脳性麻痺障がい者のような全身性の障がい者差別意識を持っている⑧高齢者に対して差別意識を持っている⑨若い時の自分をモデルにして考えている⑩介護職員のスキルやモラルやマナーが未熟で不安である⑩寝たきりや介護生活の中で喜びを見つける、生きることの意味をみつけることができないと思い込んでいる

  • #12

    哲ーMETAL (水曜日, 11 11月 2015 06:24)

    今回は「長生きはめでたいことなのか?」でした。
    「生きること」の様相やあり方は多様であり、「長く生きること」はそのうちの一つだと思います。「どのように」「生きる」のかの「どのように」が欠けていますね。
    きよしこさんが取り上げたソクラテス以外にもいろいろな哲学者の名言があるかもしれませんが、少し考えてみます。例えば「よく」「幸せに」「自分らしく」「人と交流しながら」「無為自然に」「穏やかに」などです。
     「長く生きること」と「よく生きること」は比較できる概念ではないと思います。
    「長く生きること」は「長く生きないこと」と対概念ですが、「長い」が相対的な意味ですので、何と比較して長いと言っているのかわかりません。通常の使い方を反省してみますと、だいたい以下のとおりではないかと思います。
    <A>母集団の平均寿命を越えて生きることとすると
    ①母集団を「日本」とすると日本の平均寿命を越えて生きること
    ②母集団を「世界」とすると世界の平均寿命を越えて生きること
    現在の日本で言えば後期高齢者をはるかに超えて、80代後半か90歳を超えることになりますでしょうか。
    <B>過去と比べて
    ①昔の人と比べて長く生きること 
    この発想で言えば、人生が40年くらいの時代で言えば「人生50年」生きれば長く、「親孝行したいときには親はなし」が身に染みたことでしょう。現在は老老介護の時代dすね。
    <C>いわゆる高齢者(65歳以上)になって生きること程度をさし、その年齢が長く高くなることを指す
    前期高齢者の方々は「お年寄り」と呼ばれることを嫌うし、スポーツをして楽しんだり「長生き」しながら、若いときと同じように生きています。

    時代の変化の中で、長寿の意味も「めでたさも半分」になりました。100歳の祝いに首相から順銀の銀杯を渡されていたのが銀メッキの銀杯に変更することが検討されているという報道がありました。100歳を越える方々の人口増加と財政難のためのようですが、長生きをすることのめでたさが減ったのかもしれません。

  • #13

    哲ーMETAL (水曜日, 11 11月 2015 06:39)

    「長く生きること」と「よく生きること」は相互排除的ではないと思います。
    すなわち「長く かつ よく 生きること」「長くなく かつ よく生きること」
    「長く かつ よくなく生きること」「長くなく かつ よく生きること」の四パターンがあります。
    ソクラテスは人生の評価軸を「長いー長くない」から「よいーよくない」に移動させたがたったようですね。この「よいーよくない」は相対的な概念なのか絶対的な概念なのか、ソクラテスはおそらく絶対的な概念、普遍的な概念だといい、それを追求することを哲学と言いたかったのだろうと思います。
    「よい」と言いますが、「よい」が何なのかも自明ではないと思います。自明でないがゆえに、「「よい」は絶対概念である」と総論賛成にしておいて、「よい」の各論がバラバラなのではないかと思います。それに自覚がなければ、ある人たちが思う「よい」を他人に押し付けようとして、極端にいけば全体主義になるのかなとも思います。

    脱線しました。
    「長く生きる」こと自体をめでたいこととするとはどういうことになるだろか?
    すなわち「長く」「生存すること」を自己目的化し、目的のために手段を選ばないとすれば・・・。
    ①延命治療がよい②他人のものを盗んだり、殺したりしてもよい③奴隷状態でもよい④主体的に生きられなくてもよい⑤苦痛があっても投薬で延命できればよい⑥植物状態になってもよい⑦遺伝子操作をして長生きできるようになればよい⑧楽しくなくてもよい・・・
    「長いー長くない」以外に基準がなければ、首をかしげることが出てきます。

    では「よく生きること」だけで、「ながく生きることを悩むことは解決する」で解決するのだろうか?
    ソクラテスは哲学が好きだし、魂への配慮なくして生きている意味はない生き方をして大満足です。私も哲学をすることは好きだから問題はないけれど。
    「よく生きるとは何か」は今回のテーマではないから、ここでやめます。

  • #14

    鞠水 (水曜日, 11 11月 2015 22:43)

    きよしこさんからの問いは
    とても今回のテーマらしいものなの気がします
    他人を見て自問する究極の問いが
    「長生きはめでたいことなのか?」なのでしょうか
    この問いは他人が勝手に他人について考えていることで
    人の数よりも答えの方が多いと思われます
    ・年上の家族を想定
    ・年下の家族を想定
    ・仲の良い家族を想定
    ・仲の悪い家族を想定
    ・無数のパターンの他人
    感情の起伏によっても答えは変動します
    そして自分の場合にはどうなのかと置き換えます
    周囲の人は「-------」と思っているのだろうから
    誰々が「------」と言っていたから
    「長生きはめでたい」
    「長生きはめでたくない」と判断する
    長生きの定義も自分で決めることなので80歳かもしれないし10歳かもしれない
    「生きるべきか死ぬべきか」
    考えることはよくても半分は実行に移すべきではないこと
    精神状態によっては考えるだけで危険な行為にもなります
    では考えない方がよいのか?

    私は自分は自殺することはないと判断しています
    ただしそれは「今の自分ならば」と定義がつきます
    自分が「今の自分」から変ってしまうような事態は推測できるので
    「今の自分」ではない自分が考えることはわからない
    その中でどうにも避けれないことが加齢による変化です
    推測はできますがなってみないとわからないし継続した場合の変化も
    私には想像できる範疇を超えています
    周辺環境の変化でも「長生きはめでたくない」と判断するかもしれない

    どうすれば「長生きをめでたい」と思えるようになるのか?
    これもまた手に負える問いではなさそうです・・・・

  • #15

    哲ーMETAL (木曜日, 12 11月 2015 06:42)

    83歳男性の言葉の考察に戻ります。下記の言葉でした。

    「介護を受けて寝たきりになり、排泄もままならない日が来たときには、介護を拒否し、安楽になることを願う」
    83歳の男性の言葉の前提を11個挙げました。さらにそのなぜかを考えてみます。
    (1)高齢者に対するマイナス意識を男性が内面化していると思われます。その人間観とは何だろうか。①人間はホモ=サピエンス(考えるヒト)である。理性的思考ができるのが人間である。理性的思考ができないのは人間とは呼べず、人間として生きている意味がない。②人間の人間らしさは「自由」である。寝たきりであったり、自分の排泄を自分で処理できない不自由さは、人間らしくないことである。人間として生きる意味はない。③人間には「意識がある」「自己がある」「自分らしさがある」「アイデンティティがある」といった期待している自己像の永遠性を期待している。

    上記のことの検討はさらに必要だと思います。

    男性の言葉について、要介護3や4や5といった終の棲家となる特別養護老人ホームの経営者・職員であれば、どのように受け止めるべきでしょうか。大阪府豊中市の有料老人ホームの墜落事故など老人ホームにも優劣がありますが、理想的な特養職員ならという前提です。

    「寝かせきりにさせない。介護しすぎない。できるだけ「自立」能力を持ち続け生きる意欲を持てるようにしたい。介護を受けることを恥ずかしいことと感じている方には、排泄や入浴介助は同性介護にしよう。人間の尊厳をもって接っしよう。自尊心や誇りを尊重しよう。・・・・

    問題があるから否定ではなく、問題を受け入れそこから考えるはずです。83歳の男性はすでにある問題を解決しようとしているのではなく、自己自身の問題としてのみ考えているとも思えます。

    最後に、「長生きをめでたいこと」と考える立場から、考えてみます。

    特養に入ると、会社勤めの労働や家事が無くなります。何かのために生きるのではなくて、たんに生きることに近づくとします。変化がない毎日が死ぬまで永遠に続くような気がします。他者からのフィードバックの評価される機会が少なくなり、自己成長を感じられず衰えていくばかりのように思えます。自分が生きてよいのだろうかと人生の意味を肯定してよいのか悩むかもしれない。
     長生きしたことを祝福してめでたいとすることは、生を肯定すること、自分を受けいれること、自分への執着をなくし然に生きていいのだということを承認することと思います。仏教や道教を持ち出すのはなんですが、死を受け入れて生きていく究極の人間の姿を称賛しているのかなと思います。またキリスト教や親鸞ではありませんが、理性なり自力で救済しようとすることが尽き果てて、さらに突き抜けて生きるときには、生きていることの感謝の念がやってくるかもしれません。よくわかっていない宗教を持ち出してすみません。

    私が子供のころですが、お年寄りはお年寄りというだけで尊敬されるべきという価値観がありました。知識があるとか、能力が高いとかではありません。そこには、(1)高齢者が死に近づく存在として畏怖の念があったかもしれない。(2)過去の時代において(おそらく今も)、「よく生きること」はある意味、恵まれた状況や立場の人の贅沢なことかもしれません。よく生きたくても生きることができない人がいます。戦乱や貧困も半端ではなかった時代に「たんに生きること」だけでも苦労の多い波瀾万丈のことだったのかもしれない。長く生き抜いてきた人に、感謝や敬意の念をおめでとうと祝い敬意を表することが普通だったのかもしれない。

    国民皆保険・年金制度ができて、衣食住が足りた日本では、ある意味、この世でどれだけ快楽に安楽に生きるのかといった物質的な目標は達成してしまっています。
    最後に死ぬ場面になり、「たんに生きること」「人間はどこからきて、どこへ行くのか」といった、哲学や宗教のテーマにぶち当たっている気がします。

  • #16

    哲ーMETAL (金曜日, 13 11月 2015 06:36)

    問 「介護を受けて寝たきりになり、排泄もままならない日が来たときには、安楽死させてほしい」と、高齢者の方に依頼されたとき、あなたはどうするか?どう答えるか?

    上記の問いにしてみます。私はよく知りませんが、高齢者や看護師さんや介護士さんといった当事者とともに行う臨床哲学風にしてみます。

    私は、新聞の投稿ならば「ああそう」と読み飛ばしてしまいます。冷たい人間ですが。
    家族や仕事や人間関係のある人からの言葉であれば、命題の分析とか言葉の解釈をすることでもなく、ああそうですかと聞き流すわけにはいきません。実際に自分がしてきたこととも含めて、またしたいという願望も含めて、また自分があの人は人の相談事を聞くのが得意だなという人を思い浮かべて考えます。

    ①まず、相手の話をしっかり聞く。コメントや評価をしない。
    ②相手の言葉の分析ではなく、気持ちを受け止める。
    ③介護、排泄といった言葉や死にたいという言葉はあるけれど、相手の方か訴えたいのは、本当の願いは何かを考える。
    ④頼まれたことを安請け合いはしない。
    ⑤自分ひとりで抱え込まない。自分もつぶれないようにする。

    と、ここまで書きながら、戸惑ってきました。今まで、不定愁訴や不満を語る人と長く接し聞いたことがいくつかあります。話を聞いてもらうだけで、軽くなってしまう人もいれば、ますます不定愁訴が悪化して出口がないところをグルグル回る人もいました。
    解決する答は、こちらが理解して処方箋を書いて相手に提出して治療するというものではないと思います。どうやって力づけ、どうやって本人自身が考え、自ら課題を引き受け生きていく気持ちになれるのか。
    私はともに考えることが好きなタイプですし、アドバイスを求めるつもりはなく、課題を共有するためによく問題ごとを口にします。
    そこで、アドバイス好きで、すぐにあなたは○○だとか、こうすればいいと教えてあげようという人には困惑するしうんざりします。人を助ける、支援するとは難しいなと思います。

    やはり、最後はそれなりに列挙してみます。整理した方がいいかもしれませんが、発散タイムということで。
    ①馬鹿なことを言うなと反論して叱る②あなただけでなく同じような人はいくらでもいるから我慢すべきだと言う③そういうことが社会問題になっているねと他人事的に言う④そんなつらい思いをしているとはしらなかったと泣く⑤あなたは可哀想な人間だという⑥高齢者になりたくないなと思う⑦だから安楽死させてあげることがよいことだと思う⑦今は不満を言っているけれど、やがてあきらめるだろうと聞き流す⑧わがまま、贅沢なことを言っているなと思う⑨福祉施設とかたくさん作り、そこへいれてあげることが思いやりだと思う⑩どうして人を困らせるようなことを言うのだろうと思う⑪オロオロする⑫仕事をやめて、自分ができるだけ介護をして、他の人の世話にならないようにしようと思う。介護離職をする⑬他の人にこの話をして、自分の気持ちの負担を軽くする⑭とりあえず、ハイハイといってわかったようなふりをするが、どうにもならないことだとあきらめる⑮病院や福祉施設の職員に「よろしくお願いします」と丸投げする

  • #17

    哲ーMETAL (日曜日, 15 11月 2015 06:41)

    83歳の男性の文章に戻ります。

    「介護を拒否して安楽になる」とは、安楽死をしたいということなのかなと思います。

    私がイメージしてきた安楽死は、癌や不治の病などで治療をしても極度に痛みがあり、さらに治る見込みがなく死ぬまで痛みが継続することが予想される場合に、患者自身が自ら死を希望し、患者家族が同意のもとに、医師が延命治療をやめるというものです。
    競馬の馬の場合であれば、薬物などで積極的に殺してしまうのとは違うイメージです。
    また、「尊厳死」は、認知症になった人が自分で自分らしくなくなること、自分で自身のことを理解し決められない状態を、人間としての尊厳や誇りを傷つけられるとして自殺する権利を主張し、医師は自殺を幇助するというイメージです。

    上記の基準を、83歳の男性の投稿にあてはめれば、①寝たきり②排泄を介護されるレベルならば安楽死出来る、とするものです。尊厳死の基準にするには、あまりに懸隔があり緩すぎると思います。
    介護や自分で排泄できないという人の人数は、いわゆる要介護3以上の方になると思いますが、100万人〜200万人くらいはおられると思います。安易な自殺を誘導するという批判も確かかと思います。

    83歳の男性の自殺念慮に至る不安や自尊心を理解し尊重するにせよ、死にたいと思う人生の困難は、今や誰もがぶつかりうる困難として、本人や家族が抱え込まず、かつ主体的に困難に取り組めるようになるのが良いかなと思います。

    近隣の高齢者の女性の方で身辺自立能力があり介護が全く必要がない人が在宅で1人暮らしをされている方がいました。夫と死別し子どもがなく親戚づきあいもありません。その方は、僅かの国民年金しか収入がなく家賃に僅かの食費しか出せなくて、家に引きこもり外出ができなくてノイローゼになってました。最終的に彼女は福祉施設に入りました。私個人としては、彼女はむしろ良かったのではないかと思いました。

    身体能力は元気でも1人暮らしが寂しくて困難な人は、排泄の世話や介護を受けながら、介護者や同じ入所者の方がいる人間の気配がするところで暮らすのとどちらがいいのだろうかと思うと、排泄や生活介護さも関係やコミュニケーションだと思うからです。長文失礼しました。






    あまりに「いきること=生命が軽い」と感じます。
    介護されたり、排泄の世話が必要になると生きている意味がないということじたいが。
    「失恋したから死にたい」「失業したから死にたい」「株で金を失ったから死にたい」
    死にたい理由はいろいろあります。
    やりたいことができるならば、生きる。
    やりたいことができないならば、生きたくない。
    に近いかな。


     「長くいきること」それ自体を目指すことの弊害を考えます。行政が日本の国民の長寿化を良きこととして政策目標にすると、(1)国民皆年金・皆保険制度の成立し(2)栄養改善(3)医療技術の進歩、など長寿化を達成するための政策をとり、それが成功したかどうかは長寿化したかどうかで測ります。誰もが、長く生きることができた。これはこれで、社会全体が目指してきたことで、めでたいことではないだろうか?
     成果の数字で測れないものがあるのだろう。こぼれるものがが、それは何なのだろうか?

    83歳男性の言葉

    私は「ああそうと読んで流してしまった」
    聴く、寄り添う


    ほとんど死んでいるのと同じ状態



    介護する側の負担
    高齢になり認知症や急性期の統合失調症等になることがある。
    近隣の方に迷惑をかける場合もある。
    家族の負担が重い。
    だから、ダメだというわけではもちろんない。
    家族だけが抱えこまないようにと思う。多重介護や介護離職などがある。


    自分はどうか
    認知症はショックだと思う。受け容れるのも。
    周りには申し訳ない。

  • #18

    哲-METAL (日曜日, 15 11月 2015 10:07)

    呟きまで書いてしまい、スミマセン。
    私は学生時代に、脳性マヒという全身性障害者の方の介助をしていました。全身性障がい者にとっては他の方から介助を受けることが日常です。生きていけません。
    施設の中で介護を受けて生活することから、地域に住んで介護者を集めて「自立生活」をされる茨の道を選ばれました。そして、人生を楽しんでおられた。
    介助・介護はマイナスではありません。
    「自立生活運動」の「自立」とは介護をうけながらの自立です。
    83歳の男性は、高齢になってからの中途障がい者になる不安を書かれていたとも解釈できます。
    自立とは何か、障害者とは何か、介護とは何か、などにも関係するなと思います。

  • #19

    哲ーMETAL (月曜日, 16 11月 2015 05:33)

    83歳の男性の言葉「介護を受けて寝たきりになり排泄もままならないなら、介護を拒否して安楽になりたい」を、「男性が寝たきりで排泄介護を受けるようになる」高齢者になりたくないという、①老いへの拒否②狭義の「自立」へのこだわり③自尊心・・・などどちらかというと男性の男性自身の生き方への固執として理解してしまいました。

    男性をみくびっていたかもしれません。次の場合を失念していました。
    男性は若い頃から、祖父母の介護をして、やりたいことを諦めてきた。また中高年となり父母の介護をして、やはり仕事と自分のやりたいことに制約を与えてきた。
    自分が今度介護を受けるときに、世代間の負担とか、今度は自分が介護を受ける立場になる、バトンを渡す立場になるのは当然・・・と考えなかった。
    若い人たちには、自分のやりたいことを犠牲にさせたくない。

    男性の発言が自分自身の生き方への固執ではなくて、若い世代への生き方への配慮から
    自分への固執への放棄なのかもしれない。

    本当のことはわからない。表出された言葉というものの解釈しだいで、読み手の主張を支持する論拠として利用できることになってしまう。

    実は、私の父や母ならば、本音を抑えて子供のためにウソをつくのである。男性の年齢ならば私の父の世代だから、子どものためには自分の本音を言わない可能性が高い。

    表の言葉どおり、男性は介護を拒否していると表層的に解釈するか、
    表の言葉どおりではなくて、男性は本当は介護を受けて生きたいと内面に隠された真意を読み取るのか。

    「聴くことの力」がその場で発揮できるのだろうか。少なくとも「文章」、新聞の投稿だけでは行間を読むので手一杯だ。

  • #20

    鞠水 (月曜日, 16 11月 2015 19:26)

    問 「介護を受けて寝たきりになり、排泄もままならない日が来たときには、安楽死させてほしい」と、高齢者の方に依頼されたとき、あなたはどうするか?どう答えるか?

    答えに窮して押し黙る
    そんなところになってしまう自分が想像できます。
    自分の家族であるならば生きているだけでも良いからと
    3週間位は頑張ると思うが3か月後に保っている自信はない
    今夜が峠と言われたら初心に戻るけれど・・・

    仮説であれば自由があるので
    お金にも精神的にも余裕がある状態で
    意識の戻らない家族がベットで医療で生かされている
    そんな条件であれば
    できるだけ継続したいと思う
    たぶん正解のひとつだと思います

    「ベットに空きがあれば助かる病の人がいる」とするとどうなのでしょう
    「人達」であれば答えは変わるのでしょうか
    もしその助かる人も自分の家族であるならば
    その助かる人の年齢でも変わるのでしょうか
    寝ている人が高齢者で助かる人が子供であったならば
    逆に寝ている人が子供で助かる人が高齢者であったならば

    要素を変えていくと答えがかんたんに出たり
    かんたんに変わってしまったりする
    命のことでこんなに答えがぶれてもよいのかと思ってしまう

    安全な日常生活の中で無作為にたくさんの人の命が奪われると
    世界は団結を求めてそれに答える人たちがいる
    安全ではない日常生活の中で無作為にたくさんの人の命が奪われても
    その声はどこにも届かないのかもしれない
    命の価値には差がある
    価値を決めるのは心の距離なのでしょうか
    国も知らないどこかの誰かと
    名前を知っていて心を許せる人の命
    同じと考えることは私にはできない
    そして自分の命も

    もしもの時には安楽死させて欲しいと頼むことはできても
    自分に意識があって選択をすることができるならば
    死を選ぶことはできるのか
    自分ひとりのことであるならば生きる方を選ぶと思う
    では他人が関わったくるならば?
    それでも生きる方を選んでしまいそうな気がする
    きっと選ぶと思う
    どれだけ心の距離を縮められる経験をすれば
    もうひとつの選択を選ぶようになるものなのでしょうか

  • #21

    哲ーMETAL (火曜日, 17 11月 2015 05:43)

    83歳の男性への問いに、私自身の意見ではないし賛成もできないけれど、
    実際に直接見聞した意見ですので、ご紹介します。

    ある高校生の弁です。
    「うちにはおばあちゃんがいる。頭が変になり、大声でわけのわからないことを言ったり、家のものを壊したりしている。お父さんはそれでも何とかしている。僕は正直に言って、おばあちゃんは生きている意味がないと思うし、死んでしまえばいいと思う。こういった高齢者は死んでしまえばいいと、普通の多くの人は思っているけれど、周りから何か言われると黙っているだけ。」
    この高校生の弁は、ある意味で、83歳の男性と意見は重なるところがあり一致しています。介護や寝たきりや排泄が自分でできなくなれば安楽したいということと
    認知症や統合失調症等になった高齢者は死んでしまえばいいということと。

    それから「否認」という形で呼応しているかなということもあります。
    これまたある高校生の弁です。

    「私は高齢者が嫌い。醜い、汚い、臭い。私は絶対にあんな高齢者にならない」

    自分だけが年をとらない、加齢とともに容姿が変化することを認めない。
    そもそも年を重ねていくと、やがて心身の機能が低下したり病気になったり
    若いときのような「肌の美しさ」「容姿の美しさ」がなくなることを、「否認」しています。
    83歳男性の真意は解らないのですが、「介護を受ける自分が現実になることを受け入れられない」といった「否認」と会社するならば、ある意味で遠からず近い関係の意見かなと思います。

  • #22

    哲ーMETAL (火曜日, 17 11月 2015 05:52)

    私自身は賛成しない意見で違和感を感じる意見をいくつか。誰も言わないかもしれないしれません。一部は実際に聞いた話です。

    意見A:83歳のような男性がこれから増えるだろう。「心のケア」が必要だから、心のケアの専門家を養成し派遣したらいいと思う。

    意見B:男性は何か宗教に入ったらいいと思う。信仰を持ったら耐えられる。

    意見C:国は何をしているのか。政治家や官僚は何をしているのか。福祉施設をたくさん作り、介護や寝たきりになることの不安を取り除くべき。

    意見D:83歳男性の自業自得だ。そういった生き方を選択してきたのだから、仕方がない。死にたいなら死なせてやればいい。

  • #23

    哲ーMETAL (火曜日, 17 11月 2015 06:04)

    「最大多数の最大幸福」という言葉があります。人間は快楽を求めて苦痛を避けて生きる。人の生きる目的は幸福であり、幸福とは快楽を最大にすることである。この快楽は計算することができる。であるから、政治的な課題解決については、快楽を計算して「最も多くの人にとってその快楽が最大になるようにすることが、社会全体が幸福によくなることである」という考えかと思います。

    高齢になり、心身機能が衰えると苦痛が大きくなるかもしれません。
    83歳の男性の場合、心身が病むと言ってよいかどうかまだ私も判断できませんが、
    介護を受けることを苦痛と感じ、排泄の世話になることが苦痛であるという人が多数派になり、介護をする人も介護を苦痛と感じ排泄の世話にするのも苦痛であるというならば
    高齢になり介護を受ける、排泄の世話をすることが苦痛であるということを理由にして自発的に延命治療の拒否どころか、介護サービスを拒否して死に至ることを認めることが
    「正義」になりはしないだろうか?

  • #24

    哲ーMETAL (火曜日, 17 11月 2015)

    姥捨て山というものがあります。貧困や飢餓で苦しむ寒村で、働けなくなった高齢者を家から村か連れ出して山中で放置して死に至らせるということです。子供たちのことを考えて覚悟をして捨てられる親、本当は家で死を迎えさせてあげたいけれど、一族の全滅を避けるためには、親を泣く泣く捨てなくてはいけない子ども。子を思い、親を思いながらの姥捨てには、そうせざるを得ない過酷な状況があり、善悪の判断を超えるところがあります。

    似ても似つかないものに、全体主義があります。
    かつてドイツのナチス政権は、「彼ら一人あたりに○○マルクのお金がかかっている」と、知的障がい者の施設で働いている職員らしき人と知的障がい者を図像化して、障がい者を国のお荷物として、さらには優秀なドイツ人の血だけを残すべきという優生思想で障がい者の「断種手術」あるいは障がい者の「安楽死」さえしていました。

    高齢者を国のお荷物とする価値観を受け入れてしまえば、生きることを後ろめたく感じる高齢者を生み出し、富裕層の高齢者は自力で介護をして、貧困の高齢者が野垂れ死にすることはよしとする、現代版まちなか姥捨てになりはしないだろうか?
    83歳の男性から引き出すには、下り坂論法の妄想かもしれません。

  • #25

    (・ω・)ノ (火曜日, 17 11月 2015 16:10)

    別に短くても良くない生き方もあるだろうし、長生きしてもよくない生き方もあるのでしょうね。

    僕は介護職ですが、家族がのるべく生き抜いて欲しいという声を聞くと生きることの良さは己一人では測れないのかもな、と思います。どうしても家で見れない、という家族は毎日来て寝たきりのおばーちゃんに話しかけて帰っていきます。名前を呼んで、お互いの励ましになる。それは良き関係で良い生き方のーー全てじゃないにしても、一つの具体的な形じゃないでしょうか。

    汚くて弱くて(社会的に)価値がない高齢者になっても大丈夫!名前を呼んで、家族(あるいは家族と呼べるようなひと)も来てくれるし手厚い介護で大事にするよ!
    安心してね!

    って言える施設は社会的に価値のある社会福祉施設だと思うので、その指標としても「長く生きても良いことあるよ! 良いことあるようにサポートするよ!」と、言えるような社会作りをしないとねっていうのが福祉業界の模範解答になるとおもう(・ω・)ノ

  • #26

    哲ーMETAL (火曜日, 17 11月 2015 17:31)

    「大切なことは、単にいきることではなくて、善く生きることである」

    ソクラテスのこの言葉の出典はプラトンの「クリトン」のようですね。
    死刑判決が出た後に、友人クリトンから脱獄を勧めめられ説得された時の反論の言葉です。「善く生きる」とは正しいか、美しいか、善いか、と真善美で吟味して生きることです。「吟味されない人生は生きるに値しない」もソクラテスの言葉てすが、「善く生きる」ことは、哲学し、倫理的に生きることを意味しています。
    ソクラテスは死を選んでしまった。
    83歳男性との共通点は何だろう。また違う点は何だろう。

    「大切なことは、単に長生きをするのではなく・・・」

    この続きは、どうしたいですか?

  • #27

    鞠水 (火曜日, 17 11月 2015 22:08)

    哲ーMETALさんが参照された意見を読んでいると
    正しくないものは誤っている
    正解以外は必要ない
    とても割り切った答えを信じている人の意見を集めたのかな?
    それとも少数派の意見ではないのだろうか?
    などと考えていました
    今の自分を保てなくなったなら
    不要な存在なのでいなくなってもよい
    私も似たような意見をもってしまう
    「人を単純なデータで分類して不要な存在は抹消すれば良い」
    そんな意見を抹消したいと思ってしまう

    人を含めた社会性のある生物は単独で生きるよりも効率が良いので集団を作ったと思う
    その核となるのは血縁関係であり有利だから国を作ったと考えます
    ところがその核に頼らなくても生きられると判ってきたので
    血縁のしがらみは崩壊し初めてたのでしょうか?
    一緒にいたいから家族が共にいたのか
    生存に有利だから一緒にいたのか
    答えを出す時には聞いている人を選ばなければ大変なことになるでしょう
    この問いはそもそも答えを出す方が良いのか?
    蓋をして話を進めることが正解の気もします

  • #28

    みうらた (水曜日, 18 11月 2015 17:06)

    みなさま

    今回のテーマを設定した三浦です。
    多くの書き込みをありがとうございます。進行役の都合上、目を通しておかねばと思い、印刷したところ、現時点で両面印刷で8枚にもなっていて、これにちゃんと目を通すのは大変だなあと、心の中で泣いています(笑)

    きよしこさんの詩のような静かな言葉、鞠水さんの真摯な問いの数々、哲-METALさんの重戦車のような夥しい文章、そして(・ω・)ノさんの素朴で前向きな呼びかけ、これらを当日の場でどこまで参照できるか心もとないですが、みなさんに感謝する次第です。

    僕が某新聞のこの投稿欄から重い問いを受け取ったなと思いつつも、やや不満だったのは、若い世代の意見を読むことができなかったことなんですよね。

    幸い当日の哲学カフェには何人か若い方々にもご参加いただけそうなので、紙上の年輩者の方々の意見に対してどういう応答をされるのか楽しみにしています。
    (哲-METALさんが紹介されている高校生のような言葉ももしかしたら出てくるかもしれませんが…)

  • #29

    (・ω・)ノ (水曜日, 18 11月 2015 22:42)

    みうらたさんが締めてくださったのですが空気を読まず投稿いたします。すみません。

    哲‐METALさんの提示した、
    「大切なことは、単に長生きをするのではなく……」
    の、続きですが、「仲良く生きる」で、どうでしょう。共生という意味で。
    分かち合う、想いを交わす、でもいいですけど。寝たきりのおばあちゃんが亡くなったときに、家族に感謝されると亡くなった方も家族も施設の職員も救われます。
    「長生きはめでたい」かどうかは判じかねますが「長生きしてくれてめでたかった」になるわけです。
    83歳の男性も含め、寝たきりや認知症で排泄もままならないとなると個人の感想ではそれはみすぼらしくも思えておつらいでしょう。

    でもそれを度返ししてつながる絆を確認しに来て笑顔で帰り、亡くなったら大泣きする人たちを見て来たので、長生きはやはり生き方によっては良くなる気がします。
    善く生きると良く慕われるのかな。

    あと、哲メタさん。
    博学なのはわかるけど、硬いです。
    この「善く」はソクラテス(真理)でもブッダ(無常)でもマルクス(労働)でもカント(道徳律)でもキルケゴール(信仰)でも老子(安寧)でもエピキュロス(快楽)でもケン・ウィルバー(トランス)でも小松義彦(関係性)でもプレスナー(脱中心)でもマズロー(自己実現)でもなく、また同時にどれでもあってそれ以上です。

    哲学カフェは気楽な哲学がテーマだと勝手に思っているので、わりとニュアンスが通って会話に齟齬が無ければ、「よさ」の定義まで詳細に設定しなくても、当日の文脈の中で生成される「よさ」を活用すればいいと思う。
    言葉を厳密に取り決めるのは、シンプルにして共有しやすそうに思えますが、実はかえって発言を拘束します。
    「善く」に対してソクラテスを持ち出されると、真善美に限られてしまってその辺知らないから発言しにくくなるってことです。
    むしろ他の様々な意見をどうやったら教えてもらえるのか、のほうが重要だと思う。当日前のコメント欄でシュミレーション全部出すより当日話の中で文脈に合うキーワードをピンポイントで出す方が、周りの人にとっても議論の糧になるんじゃないかな(・ω・)ノ

    ってヴィトゲンシュタインなら言うと思う(・ω・)ノ

  • #30

    哲ーMETAL (木曜日, 19 11月 2015 05:49)

    私は博学ではありませんよ。よく解っていないなと気づかされてばかり。私は端的に無知です。でもその方が、偏見なく哲学するにも、これから哲学を学びなおすにも好都合です。

    「クリトン」は仕事の休み時間に読みました。名著も読み直せば、引用された「よく生きる」には私は部分的に同意し、部分的に超断固反対です。こんな文脈で使われていたんだと知りました。
    私はソクラテスの名言を持ち出して、古代ギリシア哲学の話しをしようなどと、これっぽっちも思っておりません。

    「名言」が一人歩きして、決めゼリフのように使用されるところには、正解があり当然理解しあっていると前提もありがちかなとおもいます。一旦思い込みに気づき、無知を知ることから知識の探求たる哲学が始まるかと思います。

    「よい」.「よく」とか日常的に使う言葉は、自分でも解っていて、相手も解っていると信じて使われがちです。
    今回はそれ自体はテーマではないですが、解り合った気になっていないか立ち止まりたくなる場面です。

    過去誰が語ったかの博覧会かには興味はありませんが、日常生活の自分の思い込みに気づき、判断を停止して、揺らぎ出し、新しい見方へと更新することに興味があります。

    考えを語り合って他の方の考えを知り触発されて、考えだすのは哲学カフェらしい、哲学することの良さだとは思っていますが、楽しみや好奇心で全国の多用な哲学カフェを巡りながら、これでいいのか哲学カフェと思う今日この頃です。

    ある哲学カフェは、偏見や差別や固定観念や自己弁護を強めあい、これならば哲学カフェをしない方がずっと良かったのではないかと感じる時があります。
    また対話をスムーズにしている満足感があるのだけど、これは哲学と真逆ではないかと思う場面が少なくありません。
    対話の逆機能かなと思います。

    乗り越えたい普通の哲学カフェのモヤモヤの出口を探しています。哲学同好会ではない哲学カフェに出来ることを考えてます。

    参加前のウォーミングアップで、もし自分が参加したら広く深く強く考えるために最初にするだろうことの練習を徒然に書いています。

    ですから、当日のシミュレーションではありません。出来もしないとも思います。
    考えたことの全部を書きません。ご指摘の通り、そもそも既に書きすぎですから。まだ書いていない事があっても、後は書かずに1人で頭の中で溜め込んで考え続けています。
    ご寛恕ください。



  • #31

    毬水 (木曜日, 19 11月 2015 14:11)

    私は哲ーMETALの書き込みを興味深く読んでいます。
    (右から左に漏れていくことを申し訳なく思っています。)
    「硬い」という意見には同意しますが「硬い」意見で良いのでは?
    判り易い「柔らかい」?文章は書き手の意見の反映が濃くなってしまいます。
    無知であることを見えていないことに置き換えれば
    視界に入っていないのだから自分が何を知らないかなど
    知らないし知りたくもないとすら思うことがあります。
    自分に見えている視点と見えていない視点を
    同じテーマで考えて答え合わせ?することができるのは
    貴重な体験と思っています。
    「当日話の中で文脈に合うキーワード」については
    どんな方向に話が進むか判らないので難しいかと思います。
    そもそも参加者の方がフォーラムを読んでいるか?
    読んだとして解釈が違うのでは?
    個人的な見解ではフォーラムを読んでも
    シュミレーションとして有効ではないと判断しています。