メタ哲学カフェ 第五回

どのような気持ちで哲学カフェに参加したらよいか?(2014年10月5日)

~告知~

カフェぶーれ
カフェぶーれ

■ 日 時 :  2014年10月5日(日)11:15 - 13:15

                                     (時間にご注意ください!)

場 所: 名古屋駅西 カフェぶーれ

     (名古屋市中村区椿町6-27 ホテル ル・ウエスト1階)

     名古屋駅新幹線口から西へ徒歩2分

テーマ:「どのような気持ちで哲学カフェに参加したらよいか?」

進 行: 井下賢一

参加費: カフェぶーれでの飲食代実費(300円~)

定 員: 12名(人数把握のためなるべく事前の参加申込みをお願いしております。)

 

備考: 

① 今回はいつもより15分遅らせて開催します。ご注意ください。

② 開催場所(カフェぶーれ)はAM11:00開店です。開店時間前にお越しになりますとお店はCLOSEDとなっていますがお休みではありません。

③ 100円程度の寄付を参加者有志からうけつけています。(強制ではありません。詳しくはこちらを)

④ 当日は、参加者一同の許可を得たうえで、写真撮影(ホームページその他での報告のため)と、対話の録音(研究のため)をさせて頂いております。

 

《ご案内》

哲学カフェではどのような気持ちで発言し、聴き、そしてその場にいたらよいのでしょうか。哲学カフェに初めて参加された方も慣れた方でも、いつも自問自答されておられることと思います。今回は9月21日の出版記念イベント(名古屋)での内容にも絡めて皆さんと考えていきたいと思います。

初めての方も歓迎です。お気軽にご参加ください。

 

《お願い》

  1. よろしければ、当日の対話で議論してみたい論点や質問してみたい疑問などの提案がありましたら、下記フォーラムにお書き込みください。匿名にして、当日の配布資料にさせて頂いたり、進行の参考にさせて頂くかもしれません。
  2. カフェ参加者によるレビューを募集しています。応募いただいたレビューは次回参加者に配布するほか、本HP上(下記)やカフェフィロブログに掲載させていただくことがあります。詳しくは「お問合せ」にてお尋ねください。

~記録~

写真は休憩中の様子

~フォーラム~

以下の掲示板(フォーラム)は次のようにご利用ください。

 

《開催前》

よろしければ、当日の対話で議論してみたい論点や質問してみたい疑問などの提案がありましたら、こちらにお書き込みください。匿名にして当日の配布資料にさせて頂いたり、進行の参考にさせて頂くかもしれません。

 

《開催後》

カフェの最中に言い足りなかったこと、言い損ねたこと、カフェが終わった後から思ったこと、など。もしありましたら、気楽にお書き込み下さい。

 

下記に コメント:n となっていれば、現在n個のコメントがある、という意味です。たくさんある場合、コメントは投稿順に並んでおり、入力欄はコメントの一番下にあります。(下記「コメントをお書きください」リンクで飛べます。)

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コメント: 2 (ディスカッションは終了しました。)
  • #1

    安田 (月曜日, 06 10月 2014 11:18)

    一番奥に座っていた緑のTシャツ、安田です。
    一日たってしまいましたが、皆様、昨日は本当に面白い対話をありがとうございました。
    よきタイミングをつかみ損ねて、昨日言いそびれてしまったことをひとつ、ここに書かせて頂きたく思います。

    私の隣のNさんの「内から発する主観的問題意識に基づかない対話は哲学的とはいえないのでは」という意見にも、私のむかい側のTさんの「日常レベルの問題意識から離れて、ある程度問題が抽象化された、ある程度普遍的なレベルでの対話でないと哲学的とはいえないのでは」という意見にも、どちらにも私は心底同感しました。しかし、一方で、両者は相矛盾する意見ではないか、とも思いました。その思いを打ち明けるきっかけを昨日はつかみ損ねましたので、説明したいと思います。(言うまでもないことですが、これはNさんへの反論でもTさんへの反論でもありません。私自身が感じているある自己矛盾を告白するもの、とご理解くだされば幸いです。たまたまNさんとTさんの意見に外部投影して形になっただけで。)

    例えば、私たちは「ここ」とか「今」という言葉を用いて、これ以上ないくらい究極的なやり方で具体的な空間”位置”や時間”位置”を同定することが出来ます。あるいは、時間については、動詞の現在形とか過去形、未来形などの自制(日本語には未来形という動詞の変化形はありませんが)の使い分けを通じて、語ろうとする出来事が語ろうとしているその「今」に対して相対的に前なのか後なのか、のような具体的な同定もできます。これらはある意味で主観的な同定法といえそうです。客観的な空間座標とか時間座標による同定法に翻訳するとか還元するということが、そもそもできないものだと思います。というか、そもそも”客観的同定”なることが空間”位置”・時間”位置”に対してはありえないのだと思います。

    「私」という一人称代名詞や「あなた」という二人称代名詞による特定個人の同定法や、いわゆる「こそあどことば」の「こそあ」(これ、それ、あれ)による具体物の同定法についても同じようなことが言える、と考えています。そして、具体的な特定個人や特定物についても、「このような同定法に最終的に依存することなしには同定することはかなわず、よって、誰か/何か(具体人/物)を”客観的に同定する”などということはありえない」と考えています。

    「このような同定法」と言いつつ、どのような同定法のことか、具体例をいくつか挙げることによってしかまだ示せていませんが、なんとなく伝わったのではないか、と期待します。この先、便宜上、「指差し的同定法」と呼ばせていただきます。(ちなみに、このような具体例の列挙による抽象概念の同定も、指差し的同定法の一種の拡張版と言えるようなものですね。おそらく。)

    私は、私たちが「具体的」なる言葉で意味しようとする概念も「主観的」なる言葉で意味しようとする概念も、このような指差し的同定法を実際に使ってなにかを同定しそれについて語る、という言語経験のなかにその根源がある、と考えています。また、私たちが「抽象的」なる言葉で意味する概念や「客観的」なる言葉で意味する概念は、それぞれに「具体的」なる概念と「主観的」なる概念の逆概念であることにその意味の根源をもつ、と考えます。(蛇足ですが、「ある概念がある概念の逆である」というメタ概念は、「ある主張がある主張と矛盾する」というメタ主張のやり取りの言語経験、言い換えると論理的推論の言語経験のなかにその根源をもつ、と考えています。)であるかぎり、「抽象的」なる概念と「客観的」なる概念は、指差し的同定という根源言語経験(と、論理的推論という根源言語経験)を通じて、非常に密接な意味関係にある、と考えられます。同義ではありませんが、何か非常に近い意味関係にある。

    こう考えてくると、Nさんが哲学対話の対話者にもとめる「主観的」コミットメントとは、「(対話者による)主題の具体的な同定」とは切り離せないものであり、Tさんが哲学対話の主題にもとめる「普遍性」とは、「対話者の(主題への)客観的な態度」とは切り離せないものである、と言ってよさそうに思えてきます。

    「哲学対話」というと、そのどちらも必要な気がするのに、しかし、両者は相矛盾する。。。。そのように、今の私には思えるのです。

  • #2

    山方 (火曜日, 07 10月 2014 04:01)

    10月5日は東京に別件でおりましたので参加できませんでした。メタ哲学カフェには興味がありますので、参加できなくて残念でした。少人数だったようですね。その方が深く話ができて良かったでしょうからなおさらです。
    さて、安田さんの書かれたコメントを通して当日の対話の状況を想像することは困難で、安田さんのコメントへのコメントは当日の対話とは別物になるなあと思います。すなわちNさんとTさんのコメントとして引用された言葉を手がかりに当日の対話のその部分的なことについてコメントすることと、安田さんのコメントへのコメントと、その次に哲学カフェについて思うところを書くという3部構成で書きます。
     先ずNさんの「私の主観的な問題意識」とはキルケゴールの「主体性が真理である」を連想させますね。哲学者の言葉を引用して哲学カフェ的でなくてすみません。Nさんの「哲学すること」「真理を追求すること」には、私の生と私自身と切り離されたところで語られる真理は私にとって何の意味があるのだろうかという批判意識であり、「私がそのために生き、そのために死ねる」私自身の生と切り離さず考え抜く態度を表して「主観的」という言葉が使われていて「認識主観」のようなものではなく、一度だけ一回だけの生を生きる「実存」としての「自己」のようなものであると思いました。またTさんの言われる「抽象」「普遍」とは、Aさんにとって真であり、Bさんにとって真であり、真は人それぞれあるという「真理は主観的、相対的なものである」という相対主義的な言説に対抗して、そのような言説が真理を追求することが無意味であるという態度を生んだり、あるいは「真理は主観的で相対的なものである」という言説を真であるならば、誰にとっても真であるということが想定されているのであるから、やはり個別的具体的なものを越えた共通的な真を追求したいという哲学的な態度を表現している、という感想を持ちました。NさんとTさんの真理観や哲学観は「対立」しているものではなく、視点が違うものと思います。
     安田さんが書かれている「指さし的同定法」は私たちが正しく認識しているのは個物を感覚で直接的に認識していることに根ざしているとか、私たちが認識しているのは個物であり「抽象的なもの」「普遍」ではないとか、正しく言える言葉は固有名詞であるといった言語観をNさんに見いだしたものかなという印象を持ちました。Tさんの言葉には「抽象概念」とか「メタ概念」などを充てられていますが、普通名詞Aがある世界を集合Aとその補集合Aバーに分け、普通名詞A=概念Aとは「「Aではないもの」ではないもの」といった推論的な思考を経たものであるといった言語観のような印象を持ちました。安田さんの主観とは感覚的直観による知であり、客観とは理性による論理的思考によってもたらされる知であり、それは二分する対立を孕むものであるということを言われているのかなと思いました。
     字数もあるので、最後に今回のカフェのテーマとあわせるならばNさんの哲学的態度とTさんの哲学態度を気持として持って参加することは矛盾しないと思います。安田さんの言語論の中には「こそあど」言葉や「いま・ここ」「わたし」ということが使われていますが、これこそ「個別」と「普遍」の総合ではないかと思います。安田さんの「私」とNさんの「私」とTさんの「私」は個別を指しながら3人とも指し示します。今も「此処」も幾つもあります。奇妙な言語ですが、私もよく解らないのですが、対立するとばかり考えず、言葉を使って考え対話をするからこそ、哲学対話は可能であり、結論に至らないのは、対話が無意味なわけではなくて、何を意味しているのかを言語を通して対話し続け、「語り得ないこと」言語化できないことを言語にしようと努力する気持が大切ではないかと思います。