メタ哲学カフェ 第六回

哲学的な対話とは?(2015年1月11日)

~告知~

カフェぶーれ
カフェぶーれ

■ 日 時 :  2015年1月11日(日)11:15 - 13:15

                                     (時間にご注意ください!)

場 所: 名古屋駅西 カフェぶーれ

     (名古屋市中村区椿町6-27 ホテル ル・ウエスト1階)

     名古屋駅新幹線口から西へ徒歩2分

テーマ:「哲学的な対話とは?」

進 行: 安田清一郎

参加費: カフェぶーれでの飲食代実費(300円~)

定 員: 12名 人数把握のためなるべく事前の参加申込みをお願いしております。)

今回は申込が10名に至った1月6日の時点で申込受付を

終了させて頂きました。残っている2席は、飛び入り参加自由という

従来の哲学カフェのオープンさを維持するため、

当日の飛び入り参加用に充てさせていただきたく。

ご理解のほどよろしくお願い申し上げます。

 

備考: 

① 開催場所(カフェぶーれ)はAM11:00開店です。それまでCLOSEDの札が出ていますがお休みではありません。

② ホテル ル・ウエストの1階ロビーは宿泊客専用ですので、ぶーれ開店前の待合場所としても、ご利用はご遠慮ください。

③ 100円程度の寄付を参加者有志からうけつけています。(強制ではありません。詳しくはこちらを)

④ 当日は、参加者一同の許可を得たうえで、写真撮影(ホームページその他での報告のため)と、対話の録音(研究のため)をさせて頂いております。

 

《ご案内》

私たちの多くは哲学カフェに「哲学的な対話」を求めてやって来ると思います。では、その「哲学的な対話」とは、どんな対話なのでしょうか?「メタ哲学カフェ」シリーズ、今回は、ずばり、このテーマについて語り合ってみたいと思います。もちろん「哲学の知識」は要りません。気楽にご参加ください。

 

《お願い》

  1. よろしければ、当日の対話で議論してみたい論点や質問してみたい疑問などの提案がありましたら、下記フォーラムにお書き込みください。匿名にして、当日の配布資料にさせて頂いたり、進行の参考にさせて頂くかもしれません。
  2. カフェ参加者によるレビューを募集しています。応募いただいたレビューは次回参加者に配布するほか、本HP上(下記)やカフェフィロブログに掲載させていただくことがあります。詳しくは「お問合せ」にてお尋ねください。

~記録~

哲学カフェの様子

~フォーラム~

以下の掲示板(フォーラム)は次のようにご利用ください。

 

《開催前》

よろしければ、当日の対話で議論してみたい論点や質問してみたい疑問などの提案がありましたら、こちらにお書き込みください。匿名にして当日の配布資料にさせて頂いたり、進行の参考にさせて頂くかもしれません。

 

《開催後》

カフェの最中に言い足りなかったこと、言い損ねたこと、カフェが終わった後から思ったこと、など。もしありましたら、気楽にお書き込み下さい。

 

下記に コメント:n となっていれば、現在n個のコメントがある、という意味です。たくさんある場合、コメントは投稿順に並んでおり、入力欄はコメントの一番下にあります。(下記「コメントをお書きください」リンクで飛べます。)

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コメント: 4 (ディスカッションは終了しました。)
  • #1

    山方 (金曜日, 26 12月 2014)

    1月11日は参加未定ですが、私自身は哲学カフェをあちこち参加して、哲学カフェについての疑問や課題或いは期待について、自分なりに纏めたいと思っています。今回のテーマに即して論点を書き出すと多くなりました。とりあえずここまでにします。皆さんの意見や考えを聴きたいですね。
    ①哲学対話と哲学的対話とは違いは何か②いわゆる哲学カフェに絞るのか、それ以外も考察対象か③「対話」とは何か、「哲学的対話」と「非哲学的対話」の共通点と相違点は何か④対話とよく似た言葉と比べるとどのような特徴があるか?(例)会話、省察、演説、説得、説教、放談、漫談、お喋り、説諭、宣伝、会議、集会、討論、討議、話し合い、ディベート⑤(哲学)対話は自分自身と一人でできるか。100人でもできるか。人数的な制約はあるか。⑥対話は誰にでもできるか。(例)年齢、能力、知識、スキル⑦対話を考察する端緒として、まず定義するとどうなるか。⑧対話には、良い対話と悪い対話があるか。⑨対話には目的があるか、ないか。10対話にはルールがあるか。(例)人数、時間、用意するもの、司会、記録、資格、禁止事項、守秘義務、匿名/実名、審判、勝ち負け、評価、公開/非公開、場所、広さ、有償/無償11.対話にはマナーがあるか12.対話に相応しいテーマ、目的、状態、状況、条件があるか13.対話には差別がないか?障害者(文字、音声)、性別、ジェンダー、年齢、上司と部下、知識、経験、性格(声の大きさ)、学歴、教育、文化(欧米中心)14.哲学とは何か、哲学と哲学的の違いと共通点は何か15.哲学対話は誰もが出来るのか。16.哲学対話は誰もがしたがるものか。好き嫌い、嗜好、向き不向きがあるか。17.哲学対話のニーズ、需要があるか。18.哲学対話はするべきものか。19.哲学(対話)は強制出来るか。20.哲学対話は楽しいものか、楽しんでよいものか21.哲学対話は良いか、好ましいか。22.哲学対話は優しいか、難しいか。喧嘩や炎上や紛争や対立を生まないか。23.哲学対話のメリットとデメリットは何か24.哲学対話を通して何か得るもの、成果はあるのか25.哲学対話は合意形成など問題を解決するのか、出来るのか26.哲学対話は、日常か非日常か。27.哲学対話の経験をすることと、しないこととで、何か違いはあるのか28.哲学対話は広げたいか、広げるべきか、広げられるものか、広がるか。29.哲学者とは何か。大学やアカデミックな哲学研究と哲学対話はどのような関係にあるか、あるべきか。30.哲学カフェと哲学対話はどのような関係か、違いと共通点は何か。31.哲学対話の個人的な意義は何か。32.哲学対話の社会的意義は何か。33.哲学対話は直接顔を合わせた方がいいか。手紙、電話、インターネットのチャットと比較して長短はあるか。34.テーマは事前に与えられた方がいいか、参加者でその場で決めていいか。35.哲学対話は予習した方がいいか、当意即妙がいいか?36.哲学対話の弱点は何か。37.哲学対話は社会を変えられるか。38.哲学対話が自己啓発セミナーのような癒しの場としてセミナー文化てして消費され自己満足の場にとどまらないか。39.哲学対話が参加者しだいでは、人権侵害、差別を助長しはしないか。40.哲学対話はファシリテーション・グラフィック(ホワイトボードやB紙/模造紙などに対話を記録したり整理すること)は好ましいか、どのような影響を与えているか。
    41.哲学対話は論理性か感情か。42.現実の対話の冗長さ曖昧さ言葉足らずなどはどう対処したらよいか。

  • #2

    山方 (木曜日, 08 1月 2015 06:32)

    参加者が10名には達したようですね。私は10日に参加できません。盛会でありますように。その後の報告を期待しております。よろしく。
    前回の投稿が「対話」部分に集中し、語の分析に集中してしまったので、本来の「哲学的対話とは何か」について少し意見も含めて書きます。
    1)そもそも「哲学」「哲学的」とは何か?
      これ自体でひとつの哲学カフェをしてきました。大切なことです。そこで「哲学」というのを「根本的に考える ものごとが成り立っているもと(前提)に遡って検討しなおして考えること」とした場合、「~的」は「~のようなもの、~らしい」とすると、「哲学的」とはを厳密にすると「研究者・専門家集団のように抽象化高度化されない、多くの人が日常生活の中で日常生活の言葉で根本的に考えること」とします。一人ひとりの日常生活や経験を素材にして一般的な言葉で普遍化を目指すことです。
    2)対話(ダイアローグ)とは何か?
     これも大切なテーマですが、とりあえず定義としては「向かいあって話し合うこと」とします。自己と向き合う対話という使用例もありますが、「独白」である「モノローグ」と区別するため「2人以上」で行うこととします。
    3)「哲学的対話」の要件
     「日常生活の経験で考えている判断していることを、2人以上の人間が互いに向き合い、前提に遡って考えるために話し合うこと」とします。
     「雑談」「噂話」「説教」とは区別しやすいですが、「相談」や「討論」とは接近します。その一部かもしれません。
     ここで、規範的な意見や期待を書かざるを得ませんので、今日的な意味での私見を幾つか列挙します。
     ①対話の参加者の関係性(関わりの性質)は対等である。
     教師(師匠)-生徒(弟子)のように、答を知る・持つ人という権威を根拠に教わる人への(双方向的な対話型授業もありますが)意図的に知識を伝えることや、上司-部下のように、権力を根拠に支持・命令をだし管理する人から(こちらもファシリテーション型・民主的リーダーシップもありますが)人を経営目的のもとに動員するものとは違う質の関係がある対話です。
    ②「テーマ」について語れたことへ「応答する」関係
     次々とテーマが変わるのが日常的な「会話」です。「哲学的対話」はその会話に「ストップモーション」をかけ、時間を止めて、会話の中で使用されている言葉や考え方について「問い」が出され、その問いに「応えて」「答える」話し合いです。一問一答で完結する「閉じた問い」は確認として使用されるだけで、テーマとなる問いは「話し合い」が生まれ、次々と問いが継起する「開かれた問い」が求められます。「対話」が自発的に生まれるためには、「問わずにはおられない」「応えずにはいられない」問いです。「人が生きることに意味があるのか」「女らしさ、男らしさとはなにか」など、できるだけ多くの人が日常疑問に持ち深く考えたいとか深く考えていて、他人と話し合ってみたいという問いが、哲学対話の起爆剤となります。またこの対話を促進する「自分の意見を受け入れ踏まえて検討された」「深く考えられた」「応答的回答」という、承認とさらなる深い思考を促される開かれた「応答」が燃料となる対話です。
    ③共同作業としての対話
    「断定」とか「主張」では「対話」が止まります。対話はすでに、相互に話し手となり聴き手となる役割を随時交代して進む共同の思考です。
    A)相手に伝わらなければ意味がない。相手から解らないと指摘されれば、易しく言い換える、あるいは曖昧なところがないようにより明瞭に伝えられるように努力する。相手への思いやりや分かち合える論議の世界を作る必要があります。
    B)相手の言っていることの意味がなければ、応えられない。
    相手の言っていることが解らなければ、解らないと言えて質問できる。言い直してもらえることが必要です。
    C)自分の意見と相手の意見のどちらが正しいのか勝ち負けを争うのか?
     政治的な対話、日韓関係の歴史認識の対話などは難しいですね。どちらが正しいとか沽券に関わったり、感情的になったり。
     しかし、「対話」をするのであれば、自分と異なる意見であっても、相手が話すことを妨害しないですし、間違っていると決めてかかったり、怒ったりしてはは、対話が中断します。
     「対話」は「異なる価値観を持っている人どうしが、互いの意見を話し合いながら、互いの意見を聴いて自分の意見が変わる可能性を認める、自分の考えが間違っていると思ったら自分の意見を変えてもよい、負けることが勝つことになる対話」という「規範」があるのではないでしょうか。
    「哲学的対話」は、「正しい知識を知りたいという知への愛」という哲学をする衝動が「自分が正しい、間違っていない」という偏狭な自己愛を越えて「対話」へとすすむものですので、「政治」のような利害関係の調整とは違うので「落としどころ」を探す営みではありませんが、「政治」の行き詰まりを開く機能もあるのではないかと思います。
    D)聴くということ
     言語には「読む」「書く」「話す」「聴く」という4技能を使います。
    「英語」など語学では日本の語学が「読む」「書く」に偏ってきたので上達しないとして、会話場面での「話す」「聴く」をより重視する改革を進めています。「哲学」などが大学などでアカデミックな場面でも、原著を「読解する」、卒業論文を「書く」、学会誌に論文を「書く」ことが重視されてきました。もちろん大学など高等教育の存在理由は、ゼミなどで大学教員と学生・院生が、対話をすることに真骨頂があります。「ゆっくり考える」「自分の頭で考える」ことから、小中高と受け身的な学習を続けて慣れきった思考を、思考の主体として自らを作り直す過程が大切です。
    ここでは、「話す」「聴く」という技能がフル活用されるのですが、その効用が「哲学的対話」でもいかされます。
    ④自分の頭で考えるということ
    アカデミックな世界では、ウィキペディアからコピペや他者の論文を黙って引用して自分の意見としたり、データの偽造をすることは論外で、STAP細胞騒動も検討の余地はありますが、糾弾されました。
    しかしです。例えば私たちが「調理する」「料理する」と言ったときに、それでは、「冷凍食品を解凍してケチャップをかけることは「調理」といえるかのか?」「インスタントラーメン(カレー)やカップヌードルを作ることは料理か」ということと同じことがありふれているのが現状ではないか。

    すなわち、プラトンのような哲学の巨人やその注釈や解釈を深めてきた哲学学者によって専門的に考えてきた哲学対話は「ハイテク」ですが、
    「対話」の参加者に刺激されて、他人の考えに相乗りOKで、自分の頭で考えていく「哲学的対話」は「ローテク」を使用することではないか。
    チェーンソーではなくのこぎりで、3Dプリンターではなく彫刻刀やハンマーを使うのは馬鹿げていると言われそうですが、東日本大震災でサバイバル能力が問われたのは、ハイテクに依存し過ぎると自立能力を失ってしまうということに鑑みれば、馬鹿げたこととも言えないと思われます。
    トヨタ自動車も、優秀な技能者には、過去の作り方も研修するという話を聴きます。ローテクも出来て、ハイテクも出来れば、鬼に金棒ということではないかと思います。

    長文失礼。 

  • #3

    山方 (土曜日, 10 1月 2015 02:58)

    「哲学的対話とは・・・である」というテーマについて、分析的思考ばかりしてきた。哲学カフェの時間の多くはそれに費やされる。哲学に期待されていることは、個人が反省し根本的に考えることに始まるが、それにとどまらず、社会の在り方まで構想したいという欲求に応える側面もある。またそうでなければ、哲学は訓詁学ではないかという誤解からも抜け出せない。哲学カフェとは異なる哲学的対話について念頭にあってもよいと思われる。
     すなわち、事前であれ事後的にであれ、「哲学的対話とは・・・である」を社会的文脈から意義/目的/ミッション(使命)/ビジョンを説明/解釈/意味づけ/創造/構築することである。以下例示。 
    1)哲学を革新する。大学アカデミズムに閉じ込められてしまい、学外の人間にとって、哲学が難解で近寄りがたい、有り難いものとして疎遠なものとなってしまっているところがある。その結果として対投資効果の成果重視の風潮のなかで、哲学が意味がないものと評価され哲学科を含む人文学科の廃止の提言がなされている。哲学を人々の人生の悩みや課題と再び結びつけ、存在価値を広く社会的に認知されるためにも、哲学的対話が広く行われる必要がある・・・・とする学術会議的な志向がある。
    2)明治以降欧米にキャッチアップするために欧米諸科学の翻訳・輸入・解釈・紹介でよしとしてきた学問のありかたに規定されてきた哲学を、自分の課題を自分の頭で考え、自分の日常生活で使用する言葉から普遍的な課題へ迫る、自生的な哲学へと欧米由来の哲学が日本に根付いた兆候である。3)社会の変化から生まれたものである。社会の変化とは、①グローバル社会となり、自明と思われてきた価値観が揺さぶられる異なる価値観との出会いが増えた。②経済の悪化国家財政の悪化から、福祉国家から新自由主義国家へ政治が転換した。政治や社会問題への無関心で政治家や官僚に任せていた状態から、社会の在り方や自分の生き方を知り、考え、行動する必要が強まるなど、個人の不安が高まった。③同質性を求める社会はまだ根強いが、一人ひとりの価値観の違いを承認する多文化主義的社会への移行の萌芽である。ヘイトスピーチがあるいっぽうで、性的志向や個性の尊重も進んできた。個々の生き方を承認し交流するためには哲学的対話が日常化しなくてはいけなくなった。④東日本大震災の影響で、国・東電・原子力専門家をはじめ学者あるいは科学そのもの・安全神話を垂れ流してきたマスコミへの不信が広がった。低線量被ばくをはじめ食の安全など、自分や家族の安心や安全のために自分で考え判断しなくてはいけなくなった。⑤高度学歴社会となり、哲学を自ら学び、身につけ、哲学について語りたいという欲求を持ち、取り組める層が広がった。⑥インターネットが普及し、知識は専門家の独占物ではなくなった。様々な「情報」が流れるなか、真の知を求める=哲学するニーズが高まった。
    4)学校教育の革新。国家のための教育から、個々の人間のための教育へ。
    5)政治の革新 統治のための政治から市民参加のガバナンスへ。学校だけでない、一般社会人の市民性教育の場、学びの場として哲学カフェをはじめ、多様な交流と話し合いの場が求められるようになった。
    3)企業をめぐる状況の変化。国内を生産活動拠点とし、大量生産を可能にし、組織の価値に同化し従順な従業員を企業が人材育成していた時代から、異なる価値観の人と交渉し企業活動を行うようになったこと、非正規雇用の増大は正社員の資質の変化、企業福祉の削減など企業文化を変質させた。求められる人材が変化した。とりわけ「コミュニケーション能力」が重視されている。哲学的対話能力が求められるようになった。

    哲学カフェとは異なるかもしれないが、「哲学塾」「寺子屋」あるいは「哲学カフェ」「〇〇カフェ」の看板を掲げつつ、個人的課題や社会的課題について各自が定義する「哲学」の「語り場」や「学び場」やその「居場所」が叢生していると感じています。どの時代にもあったとも言えますが、現代的なものとして熱があるのではないかと思います。 長文失礼。

  • #4

    山方 (日曜日, 11 1月 2015 05:07)

    当日早朝になにですが、論点の補遺を
    (43)ファシリテーターは必要か(44)シナリオは必要か、即興性がよいか(45)哲学書の購読と解釈の専門的訓練を受けたり、体系的な哲学史を学んだ研究者の役割は何が考えられるか(46)哲学カフェのような、特別な時間と空間、非日常な哲学的対話を、生活や仕事の中で、会話や雑談が哲学的対話として転ずる転換や発展には何か方法があるのか

    言語の4技能について修正を。
    学校の授業は、特に高校は実技でない座学は、チョークとトークで教員主導が多い。「聞く」こととノートをとる「書く」ことが多い。主体的、批判的に「聞く」ことや、質問したり、自分の頭で解釈し、まとめて「書く」ならばいいが、板書を写す、伝達がメインだ。歪みがある。最近の学習指導要領は、「言語活動の充実」や「アクティブラーニング」と理想をぶち上げているので、改善の方向へ向かっている。哲学的対話が再評価され導入されるためには、洗練され、学びとして実践可能なところまで、知識、スキル、価値が体系化され、トレーニングされないと画餅に終わる。この流れに哲学カフェが寄与できるといいなと思う。