メタ哲学カフェ 第十二回

「カフェ」とは何か

(2015年12月19日)


~告知~

カフェ・ティグレ
カフェ・ティグレ

■ 日 時: 2015年12月19日(土) 10:00~11:30

場 所: カフェティグレ伏見店

    (名古屋市中区錦1丁目10-11、ユーキホテル1階)

     地下鉄「伏見駅」10番出口より徒歩1分

テーマ: 「カフェ」とは何か

進 行: 井下賢一

参加費: 飲食代実費(400円~)

定 員: 15名

申 込: 不要 (ですが、なるべく事前にご予約ください。定員に達し次第、申込みを締切ります。)

問合せ/申込先:staff.nagoya*cafephilo.jp (*を@に要変換)

 

備考: 

① 100円程度のご寄付をお願いしています。(強制ではありません。詳しくはこちらを)

② 写真撮影と対話の録音をさせて頂いております。NGの方はお申し出ください。

 

《ご案内》

公民館や会議室、レストランなどカフェ以外の場所でも数多くの「哲学カフェ」が行われています。この「哲学カフェ」の「カフェ」とは何を意味するのでしょうか。そして、私たちはこの言葉に何を期待して参加しているのでしょうか。今回は「カフェ」に籠められた意味を皆さんと共に探っていきます。

初めての方も歓迎です。どうぞお気軽にご参加ください。

 

~記録~

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~フォーラム~

以下の掲示板は次のようにご利用ください。

 

《開催前》

よろしければ、当日の対話で議論してみたい論点や質問してみたい疑問などの提案がありましたら、こちらにお書き込みください。匿名にして当日の配布資料にさせて頂いたり、進行の参考にさせて頂くかもしれません。

 

《開催後》

カフェの最中に言い足りなかったこと、言い損ねたこと、カフェが終わった後から思ったこと、など。もしありましたら、気楽にお書き込み下さい。

 

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コメント: 8 (ディスカッションは終了しました。)
  • #1

    たつみ (金曜日, 04 12月 2015 20:10)

      ”カフェ・サンラフェル”や”カフェティグレ”のような、「喫茶店」で行われる「哲学カフェ」と公民館や会議室あるいはレストラン等で行われる「哲学カフェ」に対するぼく自身の予想や期待はかなり異なるように思います。公民館や会議室では会場の構造や雰囲気もある範囲で予想できますし、喫茶店でなら当然喫し得る美味なコーヒーや紅茶が得られるかは不確かで、自販機の利用が精々かも。ところが、レストランでは、会合時刻にもよりますがある程度の質量の食事が可能な(そのための時間への考慮も必要とする)集まりを予想すべきかも知れません。(食事についての主催者からの知らせも恐らく必要となります。)こうした場所の選択が「哲学することやそのために集まるぼくら」に与えるプラスやマイナスの影響をまずぼくは考えています。殆ど知りませんが、元祖の欧米のカフェと日本の喫茶店の異同なども気になります。

  • #2

    鞠水 (火曜日, 08 12月 2015 11:36)

    哲学カフェにおけるカフェとは?なのですが
    カフェというもの自体が変幻自在で捉えどころがない気がします。
    カフェとは珈琲が語源なのでしょうか?
    それを喫茶店と訳した?と思われるのですが
    その場合の「茶」はおそらく日本茶は含まれていなかった。
    西洋文化としてのコーヒーや紅茶を飲み
    西洋文化に接する場所だったのでしょうか。
    話題もそんな流れだったかと推測します。
    そしてケーキやスパゲティ、ハンバーグなどの洋風?を取り入れ
    独自の存在として発展していったのですが
    その過程で「質」を切り捨て
    「喫茶」の場であるよりも「場所」を借りるために「喫茶」する存在になっていった。
    (もちろん「質」の高い店もあります)
    食事をしたり雑談をしたり休憩をする場所貸しが喫茶店
    その場所で西洋文明の基礎?の哲学の談義をする
    哲学カフェとは喫茶店の「先祖返り」なんでしょうか・・・・


    カフェと喫茶店が同じものなのか?
    喫茶店も形態に様々なものがあります。
    スターバックスは喫茶店として良いのか?
    ファミレスはレストランと名前がついていますがカフェの範疇?
    自販機と椅子とテーブルがあるだけで常設の店員がいない場所は?
    公園にあるオープンカフェはカフェでしょう。
    では公園に自販機があるだけならば?
    あるいは公園に屋台を持ち込んだならば?
    はたまた参加者に対して別の参加者が飲み物を販売したら?
    ピクニックのようなスタイルもカフェと言い切れないこともなさそうです。
    公園を会議室に置き換えてよいのでしょうか。
    お茶を飲む場所と考えれると縁側も捨てがたい。
    茶道の知識は無いのですが、お茶を作法に従って飲む事だけが茶道ではないとは思います。
    東洋哲学の括りに入れたのならば日本スタイルの伝統的な哲学カフェ?
    俳句や和歌、連句も思考実験とも・・・
    形式から外れる事が目的のひとつとするならば
    茶道の表千家に対して新たな形式を確立した裏千家は革命的な存在です。
    茶道と哲学カフェは全く別のもの
    と言い切れるものでもない気もしてきます。
    哲学カフェも時間とともに権威が生まれて形式化が進むかもしれません。
    日常から少し離れて本質的ななにかを探求する場と考えるならば
    茶道は哲学カフェにとって沢山の先例が詰まった存在かもしれません。


    なぜ会議などの最中にお茶を飲むことが気分転換になるのか?
    (ならないかもしれませんが)
    哲学カフェの「カフェ」と重なる部分があるのでしょうか?

  • #3

    たつみ (水曜日, 09 12月 2015 16:44)











     鞠水さんどうも有難うございました。お蔭さまでぼくが一人で考えていた範囲を超えた色々な喫茶の場所、例えば自販機の周りに椅子が置かれた休憩所といった場所、近所のスーパーや鶴舞公園などににあったことを思い出しましたし、他にも色々な喫茶店、喫昔ながらの列車の二人掛けや四人掛けの座席スタイルの喫茶店や駅の待合室の隅にあるカウンター、等々やそれ以外のこれまで過ごしたことのある様々な喫茶店、喫茶の場所などなどの様子やそこでの思い出などさえも浮かんできました。どうも有難う御座いました。そうした様々な場所で自分は一体どんな時間を独りで、あるいは誰かと、コーヒーや紅茶、あるいはフルーツジュース、・・・を飲む(休憩し喉の渇きを癒す・・・)こと以外に、何をそこに求め、何をして(音楽に耳を傾ける、読書、考え事、親しい友人との哲学的対話とは自信をもって言い切れないが、全く無縁でも無いように思える内容のお喋り、仕事の相談、こうした行為は大学に進み下宿した頃辺りから始まったのでは?)、何故、かなりの時間を過ごしたのだろうか。ただ、現在の哲学カフェの規模の人数や時間規模での会合は喫茶店であった記憶は殆ど記憶にない。(喫茶店の普通の客としての利用の経験からは、行き付けであれ普通の喫茶店にそれだけの規模、時期、時間の条件で場所を借用することは試みる以前に不可能に思えていたようだ。かなり哲学カフェがこうして利用できている現在は喫茶店の状況が変化しているのだろうか。小説家や詩人たちの同人の集まり、若い画家たちの集まりなどのように酒を飲む店の方が、安酒でも金がかかるだけ見つけやすいのだろうか。哲学カフェならぬ哲学パブ、饗宴はどうなのだろう。)

  • #4

    たつみ (木曜日, 10 12月 2015 08:12)

      従来の大学の教室、講義室、ゼミ室などなどから出て、街中の「カフェ」に場を移し、苦くて黒く香高い、一杯のコーヒーを啜りながらの哲学的対話をすること、そこで確かに自分に感じられた「気分転換」の必要、そこに考えてみたい、まだ曖昧で突き止められていない大切な意味があるのではないかとぼくは感じているのですが。

  • #5

    鞠水 (月曜日, 14 12月 2015 14:09)

    哲学カフェの「カフェ」の勝手なイメージ

    ・堅苦しい場所でないこと

    ・参加に資格がないこと(無くはないと思いますが)

    ・対価を払う対象が「哲学」にではなく「カフェ」である
     「哲学」の「講師」に対して知識への対価として支払う訳ではない?
     (個人的には無償にしなければいけないとは思っていない。)

    ・会場?で飲み食いが可能

    ・「専門的」な哲学の場ではない
     
    ・「専門家」?のための集まりではない

    ・既存の哲学のための場所ではない

    ・勉学の場ではなく「カフェ」に移ることで主従関係などのしがらみを断つ?
      権威や専門用語が意味を持たない場外を求めたんでしょうか?

  • #6

    たつみ (金曜日, 18 12月 2015 16:22)

     場を街に移すことで「哲学」の鎧兜を脱ぐこと、また、主従関係になりかねない師弟関係の絆から離脱する試み、そんな思いがしますが、秋月龍珉という人の本『禅のことば』(講談社現代新書)で紹介されていた「喫茶去」(中国第一の禅の巨匠趙州の語として有名だそうです)が頭を離れません。勝手な連想でしかありませんが。

  • #7

    鞠水 (金曜日, 18 12月 2015 16:35)

    「カフェ」とはなにかがお題なのですが
    なにを受けての「カフェ」なのかが気にはなります。
    哲学カフェは「哲学」をカフェで話すのか?
    カフェで「哲学的」な話を話すのか?
    これは話が逸れるのかな
    ・哲学を専門的な場所から引っ張り出して自由に話をする哲学のための場所
    ・誰でも参加できるカフェで既存の哲学の枠に囚われず、専門用語等を使わずに
     哲学的な敷居の低い?話から哲学の本質に近づく事
    書き分けがうまくいかないのですが違うような気はします。
    先に「場」を離れて参加者のために専門知識から距離を置いたのか
    専門的な哲学から離れるために「場」を変えたのか?
    答えがある訳ではないのでどっちでもよい話なのかな?

  • #8

    まりモンタナ (金曜日, 18 12月 2015 22:52)

    哲学カフェのカフェはちょっと話そうよ硬くならずに気楽に行こうぜ、みたいなニュアンスが含まれてる気がします。
    専門性の度合いはその時のメンバーの雰囲気で決めていこう、という柔らかさがあるというか。

    もともとカフェって半密室というか、私的半分公的半分というか、周りのお客さんや店員や、メニューが常に置いてあったり音楽流れてたりで、親密な少人数(テーブル一つ、四人くらい?)ならなんとか真面目な話もできるかもだけど、基本的に哲学カフェのような自由参加型企画で大人数だと専門的な(講義的な)話しは難しく、まあまんなで気楽に、でも哲学的な話ししようぜってことかなあって。

    哲学そのものが本質を追求するっていうストイックな印象がある➕カフェって気楽でまったりした印象があるので、遊びながら学べるみたいな、甘辛MIXコーデのような、真面目にもなれるし論理抜きで笑って直感で話してもいいしみたいな幅の広さを感じるでござる。