詩de哲学 第一回

「生命」とは? (2015年3月28日)

~告知~

カフェ・ティグレ
カフェ・ティグレ

■ 日 時: 2015年3月28日(土) 10:00~11:30

場 所: カフェティグレ伏見店

    (名古屋市中区錦1丁目10-11、ユーキホテル1階)

     地下鉄「伏見駅」10番出口より徒歩1分

テーマ: 「生命」とは?

題材詩: 『生命は』 吉野弘

進 行: 井下賢一(都合により安田清一郎から変更します。)

参加費: 飲食代実費(390円~)

定 員: 15名

申 込: 不要 (ですが、なるべく事前にご予約ください。定員に達し次第、申込みを締切ります。)

問合せ/申込み先: staff.nagoya*cafephilo.jp (*を@に要変換)

 

備考: 

① 100円程度の寄付を参加者有志からうけつけています。(強制ではありません。詳しくはこちらを)

② 当日は、参加者皆さまのご許可をいただいて写真撮影(ホームページその他での報告のため)と対話の録音(研究のため)をさせて頂いております。

《ご案内》

没後一年ということで最近すこしメディアに取り上げられた詩人、吉野弘さんに、「生命は」という詩があります。一分で読めるさして長くない詩です。いろいろ考えさせてくれる詩です。「生命」とは? 一緒にこの詩を読んで、一緒に考えてみませんか。

《お願い》

  1. よろしければ、当日の対話で議論してみたい論点や質問してみたい疑問などの提案がありましたら、下記フォーラムにお書き込みください。匿名にして、当日の配布資料にさせて頂いたり、進行の参考にさせて頂くかもしれません。
  2. カフェ参加者によるレビューを募集しています。応募いただいたレビューは次回参加者に配布するほか、本HP上(下記フォーラム)やカフェフィロブログに掲載させていただくことがあります。詳しくは上記問合せ先までお尋ねください。

~記録~

Twitter速報

facebook報告

報告です。先日3月28日(土)「詩de哲学」シリーズ第一回 (テーマ: 「生命」とは?、題材詩: 吉野弘『生命は』)が、伏見のカフェ・ティグレで開催されました。詩によってざわつかされた力を駆動力に哲学的な思索と対話を進めていこうとす...

Posted by 哲学カフェ@名古屋 on 2015年4月1日

~フォーラム~

以下の掲示板(フォーラム)は次のようにご利用ください。

 

《開催前》

よろしければ、当日の対話で議論してみたい論点や質問してみたい疑問などの提案がありましたら、こちらにお書き込みください。匿名にして当日の配布資料にさせて頂いたり、進行の参考にさせて頂くかもしれません。

 

《開催後》

カフェの最中に言い足りなかったこと、言い損ねたこと、カフェが終わった後から思ったこと、など。もしありましたら、気楽にお書き込み下さい。

 

下記に コメント:n となっていれば、現在n個のコメントがある、という意味です。たくさんある場合、コメントは投稿順に並んでおり、入力欄はコメントの一番下にあります。(下記「コメントをお書きください」リンクで飛べます。)

また、投稿するには「名前」記入が必須となっていますが、これは本名である必要はありません。

コメント: 22 (ディスカッションは終了しました。)
  • #1

    高橋 (火曜日, 03 3月 2015 20:04)

    「生命は」に触れてみて
    詩は圧縮された情報の塊!
    1時間半でこの詩を解凍する事ができるのか?
    そんな危機感から少し記載してみたいと思います
    とくに後半の映像のイメージで詩の印象がとても変わるのでは?

    なぜ虻なのか?
    花の受粉を助ける虫として思い浮かぶのは
    蜜蜂や蝶ではないのか思います
    都会で生活する日本人にとって虻は身近な虫とは言えないのではないか?
    蜜蜂は家族の為に働いているメスに限定されてしまう
    蝶は?
    遊び人のイメージが強いのだろうか?
    個人的にはキリギリスよりも蝶の方が働いていないイメージがある気がします
    でも蜂でも蝶でも黄金虫でもありません
    では虻はどんなイメージなのでしょう?
    まず文脈的には花虻?
    肉食系の刺す虻は花の仲立ちには少し不向きそうです
    なので蜂か虻かと接近を怖がる必要はないでしょう
    ついでに
    蜂は身を守るためにも攻撃の際にもお尻の針で刺しますが
    虻は食事のためにくちばし?で刺しますが身を守るためには刺しません
     色は何色なのでしょうか?
    黒と黄色のストライプで蜂に擬態している?
    それとも黄色?緑?黒?
    光をまとうとは蛍のように自分で発光するのか
    はたまた太陽等の光源を反射させるのか?
    私の知る虻にはメタリックに光を反射させてとても綺麗な物もいました。
    まるで目がうるうるしているようなので「うるい」と呼ばれていたと思う。
     大きさは?
    花のサイズによって変わってきますね
    向日葵のように巨大であれば小さな虻
    でもかすみ草のように小さな花であれば虻の方が大きい
    空を覆うほど大きな存在かもしれない
    この花のイメージからも様々な想像の余地があります
    群生する花なのか孤独にいるのか
    点在する花であれば自分の所に来てくれない虻への想いは違ってくるかも
    そして花の高さ
    木に咲く花や斜面に咲く花であれば視界が広く
    地面を這うように咲く花は見上げます
    他の植物などの陰でひっそりと咲いていれば視界は限られます
    それに季節や時間によっても変わってきます
    夜なんかも素敵かもしれません
    普通は花は昼間に咲いて虫達を待ちますから
    夜に咲くとするとその虻のために咲く花なのでしょう

    月のない新月に斜面に咲く花は
    虻のために花開く
    光をまとった虻の明かりは遠く
    近づいては遠のき
    姿が見えなくなってしまう
    もうじき日が昇ると諦めかけたその時・・・

    書き進めると楽しくてきりがないのでこれにて!

  • #2

    あずま (水曜日, 04 3月 2015 14:26)

    面白そうな試みですね! 1分で読めると書いてありましたので読んでみました。

    いいなと思ったのは、中段の、「互いに欠如を満たすなどとはなどとは/知りもせず/知らされもせず/ばらまかれている者同士/無関心でいられる間柄」というところです。この「無関心」「世界のゆるやかな構成」というのがこの詩のキーワードだと思います。
    虻は花のニーズを理解した上で取引を行っているのではなく、花の意図には無関心であり、ただ蜜を吸いにきているだけです。しかも、次から次へ、いろんな花に飛び移っていく。一方、花のほうも虻にお構いなく、花粉を擦りつけて自分の都合に合わせて虻を利用します。 蝶ではなく虻にしたのは、虻のほうがメカニックでより無関心さを強調できるから、ではないかと思いました。
    最後の部分も、「無関心」「ゆるやかな構成」の主題の下に、「だったろう」「かもしれない」と、自分の意図の及ばないところで偶然に誰かを満たしていた、満たされていたという可能性を想像させるという展開になっています。

    この詩で描かれている自然界の「欠如の満たしあい」は、人間界の「求めるー差し出す」という関係とは違い、コミュニケーションを前提にしていないように感じられ、それゆえ軽く、爽やかな印象を受けます。最初、「あー、共利共生の平和なパターンしかみないのか。片利共生だってあるし、もっと破壊的な関係もあるぞ。自然界に自分の理想を見たいだけちゃうか」と思って読み返し、以上のようなポイントを見つけた次第です。
    みなさんの感想もきいてみたい!

  • #3

    高橋 (水曜日, 04 3月 2015 23:08)

    生命は
    自分自身だけでは完結できないように
    つくられているらしい
    では「つくられているらしい」でなければいけないのか?
    つくられている つくられる つくられていた つくられていく
    つくられていない つくられていないらしい つくられようとしている
    つくられてはいかない つくられてきた つくられつつある 
    つくられつづけている つくられつづけていない 
    有限の単語を組み合わせ
    無限の可能性を作り出していく
    書き記された言葉は
    選ばれなかった無限ともいえる言葉たちの上に成り立っている
    無限の言葉の上にたち
    我々の前に差し出された一遍の詩は
    それぞれの経験の数だけ解釈があり
    時間と関わった他者の数だけ広がっていく

    詩もまた
    自分自身だけでは完結できないように
    つくられているらしい

    あなたにはどんな花がみえますか
    どんな虻がみえますか
    そしてどんな風が
    あなたに触れていきましたか

  • #4

    高橋 (木曜日, 05 3月 2015 21:37)

    花も
    めしべとおしべが揃っているだけでは
    不充分で
    虫や風が訪れて
    めしべとおしべを仲立ちする

    「花は」ではなく「花も」とされている
    花を擬人化するのではなく「花も」と記載しているので
    我々と同じ不充分な存在の仲間ということなのでしょうか
    太古の生き物には雌雄は存在していなかった
    我々は同族のパートナーを求めることを選択したグループに属している
    花もまた我々と同じく同族のパートナーを必要としている

    擬人化しない選択といっても
    私は共存関係のある花と虻や風との関係を擬人化して考えてしまう
    虻や風は花のめしべとおしべの仲立ちをしようなどと考えてはいない
    しかし花はどうなのだろうか?
    風に運んでもらいやすいようにおしべの構造を自ら変化させている
    蟲との関係では花粉という報酬を与えているかのようにもみえてしまう
    本当に植物は考えていないのだろうか?
    偶然の連続により蟲に好まれる花粉を創り出し
    訪れてもらいやすいように花の構造を変化させ
    なんらかの理由によって鮮やかな色彩を身にまとっている
    人間を人間として特徴づけている
    思考、愛情、慈悲、遊びなども
    他者との総和における偶然の産物であるならば
    擬人化しない選択とは
    花と虻の関係が人間のようにみえるのではなく
    人間らしいという概念も花と蟲や風の関係と同じという選択なのだろうか

  • #5

    高橋 (土曜日, 07 3月 2015)

    生命は欠如もってつくられ、自分自身だけでは完結できず、
    欠如を他者に満たしてもらう必要があるらしい。
    なぜ世界は完成された姿ではなく、ゆるやかな未完成の姿で構成されたのだろう
    なぜ詩人はポジティブな表記でそのつながりを描いたのだろうか
    なぜ「ゆるやかな」などという禍々しい言葉を紛れ込ませたのだろう

    思考の方向性を変えても
    この詩に何事もなかったかのように飲み込まれてしまう
    欠如を満たす必要などないのかもしれない
    完成させてはいけない
    残酷で取り返しのつかない出会いだったとしても
    この詩と矛盾することはない
    どんな結果に対しても無感情に読み解けてしまうことを
    はたして詩人は望んだのだろうか

    互いに
    欠如を満たすなどとは
    知りもせず
    知らされもせず
    ばらまかれている者同士
    無関心でいられる間柄
    ときに
    うとましく思うことさえも許されている間柄

    この感情的な表現になまなましい人間性を感じてしまうのも
    私が他者の存在で欠如を満たそうとする存在であるからなのだろうか

  • #6

    高橋 (月曜日, 09 3月 2015 20:51)

    この短い文章に捕らえられ離れられないことに
    我ながら呆れてしまう
    探しているのは
    存在しないパズルとそのピース
    存在しないものを探しているのに
    なぜこんなにドキドキして楽しいのだろう
    仮説の上に仮説を重ねているだけの言葉遊びなのに
    日常生活の当たり前だった人間関係が
    不意に胸に突き刺さる
    心の動揺が
    探し続けることを止めてさせてくれない

    私もまた
    自分自身だけでは完結できないように
    つくられているらしい

  • #7

    高橋 (火曜日, 10 3月 2015 21:42)

    知りもせず
    知らされもせず
    ばらまかれている者同士
    無関心でいられる間柄

    なぜか血がざわめいてしまう
    距離感を置く言葉のはずなのに
    全然距離を置いているように感じれれない
    音の通らないガラスのこちら側で
    必死に何かを伝えようとする詩人の姿がうかんでしまう
    もどかしさ、無力感を感じながらも諦められないでいる絶望を
    同時に
    もうひとりの自分が
    そこに詩人の姿などない
    囚われているのは自分であり詩人ではないと
    静かに思っている

    ときに
    うとましく思うことさえも許されている間柄

    うとましく思っているのは
    相手なのだろうか
    それとも相手のことをうとましく思っているのだろうか
    無関心でいられる間柄ならばうとましいと思う感情は生まれない
    知らない者同士のばらまかれているだけの関係に
    うとましいなどという感情が生まれるのだろうか?

  • #8

    高橋 (木曜日, 12 3月 2015 23:24)

    2週間人と会わずに過ごしたことがあります
    水が切れたので町へとむかいコンビニで買い物をした
    「ありがとうございました」とマニュアルどおりのあいさつに
    涙がでそうになった
    乾いていたのは喉だけではなかったことに自分でも驚いた
    人との交流を断つことがことは過酷なこと
    渇き、飢え、肉体を維持するのに必要な物が欠乏する際の言葉はあるが
    心の渇きや飢えをあらわす言葉を私は知らない
    たぶんあるのだろう
    では使われないのはなぜなのだろうか?
    その言葉は伝える相手がいない状態のはずなので必要がないのか
    言霊として忌みな言葉なので存在してはいけないのか
    存在してはいけない状態なので言葉すらないのか
    そんな言葉があるならば
    「うとましくおもうことさえもゆるされている間柄」
    この言葉を読み解くときに考えたい気がする
    親の愛情をお節介と感じるようなものかもしれないが
    それならば「ときに」をまえにつけない気もする
    自分の中の欠如を心の飢えとするならば
    「ときに
    差し出される手をうとましくおもってしまう」
    そんな罪深さが込められているのではないかと
    おもってしまう

  • #9

    高橋 (土曜日, 14 3月 2015 19:53)

    心が満たされていると
    他者や世界に対して「ともにいる」と
    感じることがある

    この言葉にたどりつくために私は思考を続けてきた気がします
    やっと気持ちがしっくりきました

    人は幸せだと思っている時には世界に対して一体感を感じ
    不幸せだと思っていると断絶を感じる

    自分の気持ちが幸せだろうが
    不幸だろうがそんなことにはおかまいなく
    風はふきぬけ
    虻は自分の都合で訪れ
    自分の欠如を満たしていく
    あるいはこちらの欠如を埋めていくのかもしれない
    互いを知らなくとも、互いを必要とするよう
    世界はゆるやかに構成されている
    あなたは花や虻を見ているだけなのかもしれない
    それでも花や虻から受け取っているものがある
    あるいは見てすらいなくても
    風があなたに運んでくるかもしれない
    風があなたから運んでいくのかもしれない

    私もあるときには誰かのための虻だったろう
    虻だったことに気がついていなかったかもしれない

    人と心がかよったと思える時の情報量を表す単位を私は知らない
    もしあるならばどんなものなのだろう
    ほんの小さな一滴がその人の人生をかえてしまうかもしれない
    物凄く濃密な時間なのになにもかわらないかもしれない
    でも表に現れない小さな種のように
    時間をかけて大きく育つものかもしれない

    生命は自分だけでは完結できないようつくられ
    それぞれの意思とは無関係に互いの欠如を満たす
    知りもせず
    知らされもせず
    ばらまかれている者は
    「同士」なのかもしれない


  • #10

    高橋 (火曜日, 17 3月 2015 14:23)

    なぜ虻が選ばれたのか?
    「虻の姿をした他者」とは亡者のことなのではなかろうかと
    なんとはなしに思いはじめている
    虫に亡くすと書いて虻
    生き物としての「アブ」ではなく漢字としての「虻」ではないかと
    「亡」から連想されるものも表現したかったのではないかと
    この詩をめぐる思考の中で
    何度も会うことのできない人との過去の会話がうかんできた
    他者との関係に時間や距離は障害とならない
    時が過ぎなければ心に入ってこれない言葉も
    たくさんある
    距離を置いてみないと判断できないことも
    亡くしてみないとその価値が判らないことに
    残念ながら人生では多々遭遇する

    蜂のように家族のために働くのでもなく
    蝶のように優雅に舞うのでもなく
    自分が生きるためにせわしなく飛び回る虻

    亡くす、亡物、亡者
    金の亡者とは金への執着を抱える人
    亡者とは死者の意味以外に執着する人でもある
    執着は人との関わりでも大きな意味をもつ
    執着はこの詩の裏テーマではなかろうかと
    考えてしまう

  • #11

    高橋 (月曜日, 23 3月 2015 08:18)

    花と虻と風の関係は?

    虻は直接的な接触?
    風は間接的な接触?
    虻と風による他者との接触は分けて考えるべきなのだろうか?
    意思の関わる虻と意思の介在しない風?
    花にとってはどちらも偶然の出会いである
    ただし花はどちらの場合でも準備をしている
    花の側には明確な意思が存在しているのでは?
    花は永い時間をかけて風に運ばれやすい花粉や虻に好まれる花粉をつくってきた
    より古い時代には海を漂っていたのだろう
    出会いを求めて
    花に他者との出会いを求める意思がなかったのならばこの詩の仮説は崩壊してしまう
    互いに知りもせず、知らされもせず、ばらまかれて、無関心で、
    うとましくおもえる間柄が構成されるためには
    花の同族との出会いを求める強力な意思がこのゆるやかな構成を貫かなければ
    他者が仲立ちしても生命は完結できないのではないのか
    世界がゆるやかに構成されることを可能にしている意思は存在するのだろうか
    それとも偶然の産物なのだろうか
    今回も答えのない疑問に引き寄せられてしまった

    いつか
    虻の姿をした他者が
    光をまとって飛んできて
    私の欠如を満たしてくれるのだろうか
    花を咲かせ続ける意思を
    私は持ち続けることができるのだろうか

  • #12

    山方  (金曜日, 27 3月 2015 04:59)

    高橋さんの熱い書き込みの後になんですが、詩の鑑賞や読書感想会の批評の視点も表現の経験もほとんどありませんので、ごくごくいつものように、私なりの「哲学カフェ」の論点を挙げてみます。
    詩を勝手にパラグラフに分けパラグラフごとに問いを立てます。

    「生命は自分自身だけでは完結できないようにつくられているらしい。花もめしべとおしべが揃っているだけでは不十分で。虫や風が訪れてめしべとおしべを仲立ちする。生命はその中に欠如を抱き、それを他者から満たしてもらうのだ。」

    ①「生命」とは何か?「この朝顔」や「その蜜蜂」といった個々の花・虫あるいは「松田聖子」といった固有名詞を持った特定の個人といった個々の生命体のことか?
    ②「生命現象」といった抽象的なことを指して「生命」と言っているのか?
    ③「自分自身だけで完結できる(存在)」とはどういうことなのか?完全自立型の生命はどのようなイメージになるのか?単細胞動物の無性生殖すなわち大腸菌の分裂のような「下等生物」なのか?あるいは神や超越者や絶対者と呼ばれるものか?
    ④花のような植物は自ら動く動物ではないが、花のめしべとおしべが虫や風の仲立ちがあることで、「移動」=生存範囲の拡大や「異種配合」=多様な子孫の形成という生存戦略に適っていることは理解しやすい。花の場合、「花の密」といった「余剰」があるから虫の空腹という「欠如」を補うというのも理解しやすい。しかし「風」は「他者」となりうるのか?風にとって欠如はあるのか?風は存在するものなのか?
    ⑤「生命は・・・つくられている」とは、神のような設計者・創造者によって作られているという意味か?
    ⑥「生命は・・・つくられている」とは、設計者も創造者もいないが自然に為っているという意味で作られているのか?

  • #13

    yamagata (金曜日, 27 3月 2015 05:05)

    次ぎのパラグラフです。

    「世界は多分、他者の総和。しかし、互いに欠如を満たすなどとは知りもせず知らされもせず、ばらまかれている者同士無関心でいられる間柄。ときにうとましく思うことさえも許されている間柄。そのように世界がゆるやかに構成されているのはなぜ?」

    いきなり「世界」であるが、世界とは何か?
    ①「生命」の「世界」=生命の世界・生物圏に限定しているのか?
    ②「風」も含めた有機物も無機物も生命も非生命も含めたものか?
    ③「他者(欠如を満たすもの)」とは何か?誰にとっての他者か?この詩には「中心」となる「生命」は一つあるわけではない。中心と他者が入れ変わる。そうでであれば中心と他者ということが意味がないのではないか?
    ④この詩によれば、「生命」も非生命も何でも他者となるのか?
    ⑤「総和」とは何か?有限個であれ無限個であれ個の総計という意味であれば、世界は「個物」から為っているという世界観である。
    ⑥「無関心」の逆である「関心がある」状態であるとは、生命同士はどのように関係を作っているというのか?それは、生命が機械のようなものであるとする生命観であるか?
    ⑦⑥は言い換えると、生命の在り方はすべて他者=環境に決定されていて自由意志で動いていないということか
    ⑧「無関心」とは、生命が「自由」と言い換えられるか。生命が放縦に動き回り環境によって決定されないとか、自由意志で変更できる余地があるということか?

  • #14

    山方 (金曜日, 27 3月 2015 05:17)

    最後のパラグラフです。

    「花が咲いているすぐ近くまで、虻の姿をした他者が光をまとって飛んできている。私もあるとき誰かのための虻だったろう。あなたもあるとき、私のための風だったのかもしれない。」

    ①「虻」とは何か?花の密を吸う虻もいる。花から見れば益虫だ。農業をしている人間から見れば益虫である。しかし、観点を変えれば牛や人間の血をすう吸血型の虻は「害虫」でもある。すなわち、「欠如」を補うのではなく、「欠如」を創り出し、病や死をもたらす場合もある。この詩は、「有益な関係」という視点で創られてはいないか。
    ②他者を必要としてない生命というものを先に考えてみることを挙げた。他者を必要としていない生命があるとすれば、その世界はどうなっているのだろうか?「世界」を自然科学的な宇宙といい変えてよいのか?宇宙も秩序・意味がある宇宙観もあれば、時間と空間が茫漠と広がる無意味な宇宙観もある。この詩の「世界」は既に何か意味あるものを想定していないか?交渉や関係がないもの同士が存在している世界とは、動きがなく死んでいるのかもしれない。
    ③最後に、なぜこの詩は作られたのだろうか?

    最後に私の感想です。大昔、フェデリコ・フェリーニ監督の映画「道」のなかで、どんな小さな石にも意味があるのだという台詞を主人公の薄幸の女性に男性が語るシーンがあるのだけど、そのシーンを思い出しました。この詩はそれ以上に意味があるとか無いとかということに悩むこともからも軽々とした、世界への感謝と畏怖の念もあれば、大らかな生き方というか人間への肯定感も感じました。

  • #15

    yamagata (金曜日, 27 3月 2015 05:49)

    パラグラフごとではなく、全体を通しての問い立てです。
    ①欠如というのはマイナスイメージであり「弱さ」というものです。弱さというのは、人と人とを結びつける場合があります。お節介焼きの人を引きつけ、おしゃべりが始まります。赤ちゃんは弱い存在ですが、人によりますが赤ちゃんを保護したり、笑わそうとしたり、アクションを起こします。「弱さ」にも魅力があります。弱さとは何なのだろう。
    ②私たちの認識の限界というものがあります。私たちの生存条件というもの、酸素や紫外線や放射線や栄養素やら色々ありますが、私たちが知りうるものしか知り得ません。何かの恩恵で存在し何かが欠如をしていれば存在できないということも知り得ません。この詩は私たちの知識や認識の限界に対しても謙虚に認めていると感じました。そもそもですが、何故この宇宙は存在しているのか?私たちが存在している宇宙=世界は私たち人間が存在できて、宇宙を認識できるように奇跡的な発生した宇宙の一つとして作られているとも言い換えられないでしょうか?
    ③最後にですが、現実の現代社会をどの視点から見ればこの詩はどう見えてくるでしょうか?あまり良い事例ではありませんが「孤独死」「引きこもり」「生活保護」「途上国の貧困と飢餓」「イスラム国」「日中韓関係」「侵略」「収奪」「コンビニエンスや自動販売機やネット通販が拡大し、対面販売が主なスーパーや商店街が衰退している」「子どもの声が騒音とクレームが出て公園で子どもが遊べない条例や保育園へクレームが出ている」。少しイチャモンをつけているようで、自分も変な気持になってきました。要点は、あるがままを肯定受容するということが大切な場面と、変革しようとする場面と、この詩は労働運動など社会活動をされた吉野弘さんだけに、単純な意味ではないと思いますが、鑑賞者としてどう向き合うものかと思います。

  • #16

    高橋 (金曜日, 27 3月 2015 13:25)

    3月3日にこの詩について考えたことを書き始め
    とうとう時間切れになってしまったと
    寂しく感じています

    一編の詩は
    心が内面的なたびを始めるのに十分な場合がある
    書くことは情報を誰かに伝えることだけではない
    文章をつくりだすことには
    それじたいが豊かな報酬である

    駄文を書き連ねること
    それはなんの価値も作り出さない無益な行為
    無意味なこと
    でもその無意味なことは
    私の心に喜びを与えてくれ
    豊かな時間を過ごさせてくれた
    心の底にあるカオスからなる
    自虐的な思考から私を救い出し
    心を満たすための安易な代替手段から
    気持ちを遠ざけてくれた

    この詩に感謝します


  • #17

    みうらた (金曜日, 27 3月 2015 16:52)

    私は明日の進行役ではありませんが、そしてあまりこのフォーラムに書き込むことも普段はしないのですが、高橋さん、あずまさん、山方さんの言葉を見ていて、一言二言書いてみたくなりました。

    今回の「詩de哲学」は、企画した安田さんの考えでは、まず吉野弘さんの「生命は」というこの詩の存在が先にありました(と私は理解しています)。
    で、安田さんが今回この詩を題材にしようと思い立った背景には、2月の「メタ哲学カフェ」で題材とした岡田美智男さんの『弱いロボット』という本があります(と、これも私の理解)。

    じつはこの詩をじっさいに読んでみるまで、私は両者のつながりがよくわからなかったのですが、いざ読んでみると「なるほど、そういうことか!」と唸った次第です。
    「生命は/自分自身だけでは完結できないように/つくられているらしい」
    「生命は/その中に欠如を抱き/それを他者から満たしてもらうのだ」
    これらの言葉はなるほど、私たち生命の〈弱さ〉を肯定的に指摘しているように読めますね。
    そして、この詩に誘発されて、これだけ多くの言葉が今回のフォーラムに書き込まれたというそのことが、まさに先に引用した二つ目の文章の内容を証し立てているようにも思いました。

    またさらに私は、「哲学カフェ」というものも、「弱いロボット」や「生命」と同様に、「他力本願」で「自分自身だけでは完結できないようにつくられていて」、それゆえ「その中に欠如を抱いているから」、「参加者という他者から満たしてもらう」ことが欠かせない、そういう営みなんだなと思った次第です。

    一言二言と書いたわりに長くなりました。
    明日の詩de哲学は、あくまでも「生命は」という詩を題材にして「「生命」とは?」を問うものですから、流れによってはこの詩の解釈にほとんど時間をかけないかもしれません。
    でも、この詩に誘い出されてみなさんからどんな言葉がその場で生みだされてくるのか、いち参加者としてとても楽しみになりました。

    そういえば高橋さんが最初に指摘された「虻」。
    かの哲人ソクラテスが自分のことを「虻」になぞらえていたのは有名な話ですよね。そういう意味でも、この詩と哲学とのつながりにはたいへん心惹かれるものがあります。

  • #18

    澤井 (土曜日, 28 3月 2015 17:30)

    本日はありがとうございました。

    事前に「生命は」を読まずに参加しましたところ、あまりの詩の素晴らしいさに心が詩の中を泳ぎ回っているうちに1時間半が過ぎてしまいました(笑)

  • #19

    みうらた (土曜日, 28 3月 2015 17:47)

    澤井さん
     
    感想ありがとうございます。
    「心が詩の中を泳ぎ回っている」というのは、とても素敵な言葉ですね。
    じっさい、昨日この詩を初めて読んだ時の僕も似たような感じでした。
    そして、なにかここに言葉を寄せてみたくもなる、そういう不思議な力をもった詩です。

  • #20

    高橋 (火曜日, 31 3月 2015 00:17)

    「生命とは」という定義の際に
    詩は生命といえるのか?と考えていました。
    形態は様々あり、紙あるいはPCディスプレイ等に映し出す映像データ
    人が読み上げるか電子音による音声データとして存在している
    そこにあるのはデータであり、
    これが生命かどうかを判断するのは簡単で生命ではない
    しかし人が文字を読み始めると
    一部の人々にとっては判断が分かれてくる
    文字は蠢きだし
    たんに文字であることを止め
    リズムを発し音色を奏ではじめる
    単体の文字として考えれば文字データにしか過ぎないが
    思考の中で文字同士がつながっていくと
    おそらく詩といわれるものへと変貌をする
    それは頭の中の記憶へとリンクをすすめ
    データの総体を増やし
    更なる侵食を始める
    過去のデータへとそれは入り込み
    同期できるデータを探し出し
    埋もれていた記憶を再構築して新たな意味を付加していく
    その魅惑的な作業は詩に関わる記憶だけでなく
    連鎖的な広がりをつづけ
    小石の波紋が水面に広がるように動的な作用を心に及ぼし
    過去の懐かしい記憶のような質感を持ち始める
    記憶と同化したその文字データは
    様々な感情と深くつながることもある
    心に喜びをもたらし
    目の前の風景を鮮やかに変え
    思い切った事をしてしまうような判断基準すらも
    変えてしまうこともあれば
    悲しみや絶望を引きずり出して再生し
    時には癒してくれる
    目を落とせばそこに文字が並んでいることに違いはない
    しかし初めて接した時とは全く違う姿でそこにいる
    私の中でそこに「ある」ものがそこに「いる」と認識が変わっている
    「ある」から「いる」と認識を変えてしまうような存在は
    生命といえるのではないかと考えてしまう


  • #21

    高橋 (土曜日, 04 4月 2015 17:54)

    互いに
    欠如を満たすなどとは
    知りもせず 、知らされもせず 、ばらまかれている者同士
    無関心でいられる間柄

    このような形の人間関係が身近にあるのか?
    当日の意見に対して
    大半の人間関係が該当するのではと返答したと思う
    日本に住んでいる人を無差別に選択したとして
    上記に該当しない人が選ばれる可能性は相当低い
    うとましく思うよりもそもそも存在を知らない
    電車やバスに乗り合わせたり、病院や役所などの待合室での関係
    こちらはときにうとましく思うかもしれない
    そのような希薄な人間関係に対する批判的な意味を持つ詩では?
    答えを知りたい気もしますが
    私が興味を引かれることは希薄な人間関係を選ぶことができるのは
    「人間にとって普通のことだったのか?」です

    今でも田舎に(相当な)行けば人間関係は濃い
    ネット上のプライバシーの侵害などかわいく思えるほど
    周囲の人のことを知っている
    生まれる前からの家族の歴史を含めて
    広範囲の情報が地域で流通している
    私の知り合いは5年間消防団で過ごしも
    口をきいてくれない同年代の40代の男性に対して
    「なにか気に障ることがありましたか?」と聞いたところ
    知らない人となにを話せば良いかわからないので怖かったと
    胸のうちを知らされてショックだったそうです
    しかしその人にとっては知らない人と個人的に話す機会は
    人生ではじめてのできごとであり
    もしかすると最後の機会だったのかもしれない
    辺鄙なところにある小さな村では3世代以上前からの人間関係が
    世間話として口伝されているし
    どんな子供時代だったか
    誰と仲がよく、どんな喧嘩をしたか
    どんな性格でどんなふうに接するべきなのかの情報が流通している

    この田舎での出来事は特殊なのだろうか
    それとも今の我々の希薄な人間関係が特殊なのだろうか

    私には現状の都市文明が特殊であり
    知らない人が周りにたくさんいることに対して
    生き物として対応できない現状に精神が軋んでいるではないかと思う
    記憶できないほどの数の人間が密集して生活でき
    周囲が入れ替わっていく環境は人類の歴史には少ないのではないだろうか

    人は集団をつくることで安心する生物だと思う
    孤独を求めるのは青年の通過儀礼、宗教儀式、哲学者など特殊な存在で
    日常には孤独は存在してはならないものだったのではないかと想像する

    孤独でいることの厳しさを知ってしまうと
    ひとをうとましく感じることができるなど
    どれほどの贅沢なのかと思う

    しかしその贅沢を大量に消費している自分がいる
    その矛盾がこの詩から目が離せなくなっている原因のひとつだと
    胸の中で蠢く感情が教えてくれる
    書きながら動揺する心の奥に
    意識していない情報がある

    花とは真理のことではないか
    虻とは求道者
    風とはゆだねること

    求め続ければいつかは答えにたどり着けると
    この詩は言ってくれているのではないかと
    私は願ってしまう

  • #22

    高橋 (火曜日, 14 4月 2015)

    無関心でいられる間柄とは・・・

    なにかに関心がある
    そもそも関心とはなんなのか?
    関心があること以外には無関心といえるのか
    そう考えると他者に対して私は無関心といえてしまう
    興味を覚える相手にのみ関心を惹かれるが
    なぜ興味を惹かれるのかを考え始めると
    興味を惹かれる判断基準も考えたことがない
    単純なフィルターがありそうな気がする
    フィルターがそこにあり
    なぜ反応してしまうのかの基準は
    さらに過去のフィルターにより構成されている
    辿るとすぐに曖昧な記憶に阻まれてしまう

    そもそも私は欠如を抱いているのか?
    私は足りない物を欠如といえるほどの構造を
    構築してきたといえるのだろうか
    私が欠如に抱かれている
    欠けている場所の方が多い存在でしかないならば
    欠如を他者から満たしてもらうことは
    ただの成長でしかないのではなかろうかと
    考えてしまう