2013/4/27 お金とは何か

2013年4月27日、名古屋は伏見、カフェティグレにて、「経済を問い直す」という6回シリーズ(予定)の第一回として、「お金とは何か」というテーマで開かれた哲学カフェです。

 

感想、反省、言い足りなかったこと、など、くすぶっている言葉がもしあれば、なんとかしてそれを掬いだしてここにポストしてみてはいかがでしょうか。

コメント: 1
  • #1

    安田清一郎 (日曜日, 28 4月 2013 14:14)

    一番奥のテーブルで、進行補佐役をやっていたものです。問いたかったがタイミングがつかめず問えなかったことがあります。経済のド素人の質問です。

    お金でなにかの価値を計る、というのは、少なくとも今では、(昔からそうだったかは分かりませんが、)需要と供給による「市場」の自律的な価格決定機能に「商品」の価値(価格)判断をゆだねる、というようなことだとおもいます。買いたい人に比べ売りたいひとが多いほど、そして売りたいひとのなかに財力のあるひとがいるほど、「商品」の価値はだんだん下がる。売りたいひとに比べ買いたいひとが多いほど、そして買いたい人のなかに財力あるひとたちがいるほど、どんどん上がる。そういうふうに決まる価値。そして、ド素人の私のみたところですが、今の世界の経済常識では、この市場による価格決定には原則 として買い手が「不当な高値」をつけることに対する上限がないと思います。財力ある買い手がいて取引が成立するなら、売り手がどれほど「非常識」な高価格設定をしても、それは取引をする者同士の自由、ということになっている。なぜなのでしょうか。

    下限については、公正取引などの原則があって、財力のある売り手であっても財力にものを言わせて非常識な低価格設定をする、ということが(結果的に)出来なくなっています。直接の価格干渉ではないにせよ、これは市場価格の下限方向への暴走に対する「市場外」からのある種のチェック機能だと思います。私の思いつく限り、そのようなチェック機能が市場価格の上限方向の暴走に対してはないような気がするのですが、いかがでしょうか。ないから労働という「商品」についても、たとえば東京という同じ土地で働いていても時給換算で何万何十万の人間もいれば千円以下の人間もいる。土地や株や家なんかにも際限なく高価格がつく。欲しがる人たちがいて、そういうひとたちに財力(お金)がありさえすれば、価格に上限は、原則ない。。。

    これを書きながら考えたんですが、たぶんひとつの答は、「財力ある売り手の非常識な低価格設定」は「市場本来の価格決定作用に反する一供給者の不当な介入」とみなされるのに対し、「財力ある買い手の非常識な高価格設定」は「市場本来の価格決定作用」の範疇にはいるもの、ということだと思います。この考え方だと、そもそも買いたがっている競争相手がいてその競争の結果価格がつりあがったのならそれは「非常識」な価格でもなんでもなく正当な市場価格そのものだ、ということでしょう。これはこれで経済学的には正解なのかもしれません。(まだあまり納得してませんがとりあえず。)しかし、①今回のカフェで問われた、お金が「暴力的」になってきていることやいろんなものごとの価値が一元化してきているこ と、と、②この「市場価格に上限なし」という原則(まだ仮説ですが)、これらふたつのことの間には、なにか深くて複雑で一筋縄ではいかない関係があるような気がするのですが、いかがでしょうか。たとえば、今の世の中は、「お金がすべてではない」と心の底では思っていても、行動ではあたかも「お金が全て」と考えているかのような行動をある程度金貯めるまではしないとそもそも生き延びることができない、また、そうしない人間は自己責任だから飢えるしかない、そういうふうに思わせる世の中になっているような気がしてならないのですが、お金の「暴力性」というものの一面がそういう「結果的な価値一元化」を強いることだとして、それと「市場価格に上限なし」原理の間には、なにか複雑な因果関係があるような気がします。いかがでしょうか。。。

    個人的なことですが、私にとってはこれは、不当な自分自身の正当化・自己弁護も含まれてしまう可能性がある危険な考え方です。注意深く考えないといけない問題です。また次回までにもっと考えます。