2014/4/19: 考えるとはどういうことか:荒木飛呂彦 作「ジョジョの奇妙な冒険」

伏見 カフェ・ティグレで開催された哲学カフェです。

 

カフェの最中に言い足りなかったこと、言い損ねたこと、カフェが終わった後から思ったこと、など。もしありましたら、気楽にお書き込み下さい。

 

尚、ポストするには「名前」記入が必須となっていますが、これは本名である必要はありません。

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《ご案内》(ご参考まで)

1986年の連載開始以来30年近くにわたって人気を博する長寿作品『ジョジョの奇妙な冒険』。単行本は、通算で110巻にも及び、現在、第八部に当たる作品が連載中です。今回は、その第二部に登場する「カーズ」という名の究極生命体に着目して、「考えるとはどういうことか?」について考えてみたいと思います。カーズは、自ら望んで不老不死・無敵の存在になりますが、主人公ジョセフ・ジョースターとの対決の末に宇宙空間に放逐されてしまい、身動きもとれないまま永遠に宇宙を彷徨う状態に陥ります。そして、不老不死のカーズは、そのうち「考えるのをやめた」のです。このシーンを題材として、以下の問いについて考えてみましょう。考えるのをやめるとはどういうことなのか。考えるのをやめた存在とはどのような存在なのか。そこから転じて、考えるとはどういうことなのか。考える存在とはどのような存在なのか。考えることを考える哲学カフェに是非足をお運び下さい。

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コメント: 3
  • #3

    いした (土曜日, 17 5月 2014)

    安田さん、いつの間に投稿を。
    クリック操作を間違えてここを見なければ気づかなかったことでしょう。

    いくつか質問があります。

    1)
    >「考える」とは「空間的広がりをもたない」ことであり、かつ、「空間的広がりをもつ」とは「考えない」ことだ、
    とありますが、この命題は真ですか?
    私には物理的空間に存在する物質によって生起される思考しか想像できないのですが、それ以外の思考もあり得るのでしょうか?

    2)
    1)の命題が仮に真だとして、そのことから
    >「考える」ということと「時間的広がりをもつ」ということの間にはこれと同様な 本質的相容れなさ
    を導くことができるのでしょうか?
    思考は物理的空間に依拠しないにしても、その行為の前後で状態が変化していることを表す情報空間は必要でしょう。
    その情報空間には前後を区別する時間軸が存在すると思うのですが。
    また思考は一瞬のうちに行われるものもあるかもしれませんが、多くは時間の流れの中で行われるものですので、広がりもあるように思います。
    (たとえば、この文章を読んでいるとき、文章の意味を理解するのはある程度の時間の中で行われていると思います。)

    いかがお考えでしょうか。

    寝付けない夜にでも教えていただければ嬉しいです。

  • #2

    安田 (月曜日, 05 5月 2014 04:07)

    先の投稿、一部訂正します。

    しかし、もしそうだとすると、デ氏は、「考える」ということと「時間的広がりをもつ」ということの間にはこれと同様な 本質的相容れなさ を発見していない、ということになります。

    などと書きましたが、全然間違ってますね。「もしそうなら…ということになり」などしませんね。。。少なくとも、「デ氏が言葉にして書き出さなかったことは全て、デ氏が発見しなかったことである」ということを前提にしない限り、こんなことは言えません。ちょっと不注意でした。訂正します。

    しかし、もしそうだとすると、デ氏はどうやら、「考える」ということと「時間的広がりをもつ」ということの間にはこれと同様な 本質的相容れなさ を発見しなかった、ということのように思われます。

    とさせていただきます。

    。。。。。。。。。。。何というか、眠れない夜を過ごしております。。。

  • #1

    安田 (月曜日, 05 5月 2014 03:50)

    眠れない夜を過ごしています。。。だいぶ遅ればせですが、この日(4/19)の自分の発言にちょっと思い出し、補足をしたく。。。。。

    「考えるのをやめたカーズ」とはどのような存在だとあなたは思うか、という、進行役奥田さんの最後の問いに「ブラックホールみたいなもの」と私は答えました。そのココロは、「考える、の無」 =「時間の無」のようなことです。

    奥田さんの配布資料にも紹介してありましたが、デカルトはかつて、「私」の本質を「考える主体」であることに見出し、その結果「精神」の本質を「考える」ことに見出したそうです。--- 以下、ちょっと知ったかぶります。間違いに気づいた方、是非ご訂正下さい。 --- デ氏はこの時同時に、「物質」の本質を「空間的広がりをもつ」ことに見出しもしたそうです。デ氏にとってはどうやらこれらすべての気づきは不即不離のものだったようです。つまり、「考える」と「空間的広がりをもつ」という二つの性質について、

    「考える」とは「空間的広がりをもたない」ことであり、かつ、「空間的広がりをもつ」とは「考えない」ことだ、

    のように、両者を「本質的に相容れない」ものと理解することも彼の気づきには含まれていたようです。

    しかし、もしそうだとすると、デ氏は、「考える」ということと「時間的広がりをもつ」ということの間にはこれと同様な 本質的相容れなさ を発見していない、ということになります。

    私には、デ氏が発見したことよりも、このデ氏が発見しなかったことの方がとても重要に思えてなりません。

    私たちの対話の中でも、「変化」ということが「考える」の本質の一端として注目されました。「変化」は「時間経過」という事実を前提にするものです。

    「考える」、「変化」、「時間」、「私」、、、。

    この辺は全て本質的につながっているのでは。。。皆さんはどう思われますか?