2014/5/11: 哲学カフェに人々は何を求めるのか?

名古屋駅西 カフェ・ぶーれ で開催の、「メタ哲学カフェ」シリーズ第二回です。

 

《開催前》このテーマのもとで当日話し合ってみたいこと、問いかけてみたい質問などがありましたら、よろしければお書き込みください。ただし、こちらに書き込んで下さった内容は、カフェ当日に配る配布資料に匿名にして掲載させていただく場合がありますので、その旨ご了承くださる場合にのみお書き込みください。

 

《開催後》カフェの最中に言い足りなかったこと、言い損ねたこと、カフェが終わった後から思ったこと、など。もしありましたら、気楽にお書き込み下さい。

 

尚、ポストするには「名前」記入が必須となっていますが、これは本名である必要はありません。

《ご案内》(ご参考まで)

哲学カフェという対話イベントがここ数年盛り上がりを見せています。街なかのカフェでたまたま集まった人たちがあるテーマについて即興的に2時間ほど語り合うという単純な、それゆえいつも対話がうまくいくとは限らず、もやもやっとしたまま終わることも多いこの営みに人々は何を求めているのでしょうか?哲学カフェに参加したことがない方も あるいは哲学カフェに批判的な方ももちろん歓迎です。ぜひご参加ください。

コメント: 3
  • #3

    安田 (月曜日, 12 5月 2014 12:57)

    先の投稿で、

    「足元確かめ式」対話意識を高める、という目的においては自分もまた数少ない「高段者」組のひとり

    のようなことをぬけぬけと書いてしまいました。これは若干、、、いや相当、書き間違えました。これだと、「他人(や自分)の『足元確かめ式』対話意識を高める」ことにおいて自分には一日の長あり、とうぬぼれているように読めますが、私がうぬぼれているのは、自分自身の「足元確かめ」意識の現状の高さだけであって(それも、ムラがあって、全然ダメなときもしょっちゅうです)、それを「高める」ような対話を当意即妙に生み出す能力はまだまだぜんぜんです。哲学カフェでその修行をしている真っ最中、と思っております。

    訂正しておきます。

  • #2

    安田 (月曜日, 12 5月 2014 10:41)

    山方さん、

    私もこの日の対話の途中のどこかで、「今日のテーマ(文)には(山方さんが指摘されたような類の)あいまいさがある!」と気づきました。本来ならすぐ気づくべきだったのですが、情けない話です。

    というのも、実は私はこの日のカフェの《ご案内》(上記再録)を読んだとき、ある部分に対して「あれ?」と違和感を覚えていたからです。この文は、テーマのことを「哲学カフェリピーター参加者はどのような価値をこうした対話経験に見出して集まり続けるのか」というような意味で理解した上で書かれています。しかし最初このテーマを見たとき、私の意識はリピータではなく初参加者のほうに向いていました。「『哲学カフェ』と銘打たれ喧伝されている活動に『一度参加してみよう』とやって来る人たちが増えているが、彼らは『哲学カフェ』に『何』を求めて来るのだろう。この活動は今、世間から『何』を期待されているのだろう。そしてなぜ『それ』が今求められているのだろう」という、ある種の現代社会論的な色合い(あるいは、考えようによってはマーケティング・リサーチ的な色あい)をもつテーマ、と勝手に思い込んでいたのです。この時点でテーマ(文)のあいまいさに気づくべきだったのに、《ご案内》の文もあり、「自分達はこの活動に何をもとめているのか」という問いから対話がはじまったこともあり、対話開始からしばらくは、ずっとこのことを忘れていました。(この日の参加者以外の方へ:進行役の最初の質問で、「この日の参加者は全員哲学カフェ参加経験者」ということが本人達には初めから明らかになっていました。)

    《ご案内》や対話の始まり方のおかげで、私が当初誤解していたような意味でテーマを誤解していた参加者は当日はいなかったと思います。私がこのあいまいさに(対話中に、再び)気づいたときその場で指摘しなかったのは、「しなかった」のではなく(異常に押しの弱い性格で)「できなかった」のですが、出来なかった理由は、「この点については特に誰もすれ違っていない」という意識があったからです。しかし、山方さんご指摘のとおり「今の哲学カフェに、か、その未来に、か」など、あいまいさの要素は他にもありました。どんどん先へ進もうとする対話にいったん「待った」をかけ、「自分達は今『何』を話し合っているのか」と、自分達の対話の足元を確かめながら話を進める、そういう方向に行ってもよかった。。。そう思いました。(たぶんこれは、山方さんのひとつめの意見を繰り返しているだけ、ではありませんか?)

    哲学対話の中にはそのような展開もぜひあるべき、と、私は考えます。(「すべての哲学対話とはそのようなものであるべき」かどうか、、、、については、今は私の意見は保留にしておきます。)しかし、このような「足元確かめながら」式の対話はまず自然発生はしない、とも思っています。こうした対話は、意識のある参加者が心がけて、なんらかのうまいやり方でリードして創っていくしかない、と。ただ、更に、こうも思います。こういう意識のある参加者が多数派になるような哲学カフェは滅多にない、と。そして、それはやむを得ないどころか、むしろそうであるべき、と。というのも、哲学カフェの意義のひとつは、そのような意識のある少数派がリードしてそうした対話を創りだすことによって、それまでそれがなかった多数派の人たちの中にこの意識をすこしずつ生み出し、(自らの中にもその意識を高めてゆき、)そうやって、このような「自らの対話」に対する意識(というか、メタ意識)をもつ能力を社会に徐々に増やしてゆくことである、と考えるからです。「対話の足元をたしかめる」という経験がなく、よってその意識のない/低い人たちの対話は、往々にして互いの発言意図などを無自覚のうちに誤解して、空回りしたり、すれ違ったり、果ては、誤解にもとづく無益な対立に陥ったりまでしてしまう、と思うからです。

    したがって、このような「足元確かめ」式の丁寧な対話を生み出す、ということには、そしてそれをひとつの目的にする哲学カフェのような活動には、重要な社会意義がある、と私は思います。

    ところで、先にも書いたように、この目的において対話が「よき対話」となるかどうか、の全責任は、この意識のある少数のほうにあります、とも私は考えています。

    哲学カフェにおいては、対話の責任は参加者全員にある。という考え方があります。私はある面でそれに賛成で、ある面で反対です。哲学カフェにやってくる人たちは、ある意味ではまったく「対等」ではない、と思うからです。ちょっとたとえ話します。合気道の稽古では通常、十年二十年の経験ある高段者もはじめて数ヶ月の初心者も混ざって一緒に稽古しますので、頻繁に高段者と初心者が組み合って稽古します。そんな場面では、ある意味ではその稽古の責任は両者に同等にありますが、ある意味では、全責任は高段者の側にある、と私は思うのです。哲学カフェでの対話についても同じことが言える、と思うのです。哲学カフェにはきっといろんな意義や目的があると思うのですが、それぞれの目的について、おなじような「高段者」「初心者」の差が参加者のなかにきっとあります。ただ、私達には、自分が初心者の側になる事に関しては、その差がわからないだけです。この差は、「高段者」側にしか見えないのです。だからこそ、それぞれの目的において、哲学対話が実りあるものになるかどうかの全責任はその目的に関しての「高段者」側にある、と、私は思うのです。すくなくとも、自分のことをある面の「高段者」と自覚する、ということは、その面における対話の質(「教育効果」と言ってもいいかも知れません)にたいして責任を自分は持つ、と自覚する、ということをふくまねばならない、と、私は思うのです。哲学カフェという場所は、参加者たちが、自分が一体どの部分で「高段者」でどの部分で「初心者」なのか意識しながら、互いに責任を分担し合って互いを高めあう、そういう場所であってほしい、と、私は、個人的には思っています。(それがすべてかどうか、は、今は自分の意見は保留します。)

    私もそうですが、山方さんも、「足元確かめ式」対話意識を高める、という目的においては数少ない「高段者」組だ、と、この日の対話やこの掲示板の書き込みで改めて実感しました。遠距離で大変とは思いますが、今後もぜひご協力、よろしくお願いします。

    長々と失礼しました。

  • #1

    山方 (日曜日, 11 5月 2014 23:41)

    今日の哲学カフェについていくつか
    (1)話の流れで今日の展開は「一つの展開」とはなったが、気になったことの一つがテーマそのものです。「哲学カフェに人々は何を求めるのか?」という問いの主語が「人々」という「三人称」「匿名」であることです。「哲学カフェにあなた(私)(たち)は何を求めるのか?」ではないため、ある意味私自身を見つめるでもく、哲学カフェ@なごやを見つめるでもないことから、「他者の思いを推測する」「一般論」になるのではないかということです。ある意味で責任とか負担感が減り適当なことが言えるメリットがありますが、検証困難なことでもあります。「人々」が何を求めるのかという問いを誰にどのように確認するものでしょうか。この問いに答えられるためには、いくつかの哲学カフェを見聞して、このような理由で人々は哲学カフェに参加しているのではないかという意見とその根拠を語ることになる。
    本日の進め方では、「私は○○」という個人的意見から出発しつていたが、その回答を加算していけば、本日の問いに答えることになるのであろうか?
    この問いは「過去」「現状」を説いているのか、「何を求める」というものが「未来」「期待」なのかという時間というかも気になった。「学校に何を求めるのか」という問いだとしよう。現金な「学歴」「実用的知識」「話し相手」といった当事者の思いや進学動機を語る場合もあるだろうし、この問いを「学校に来て、人はどう変わったのか」と成果から見てもいいかもしれないが、「学校が本来どうあるべきか」という理念論や、現状の学校はこうだが、将来はこうなってほしいということを語るのか、問いについての吟味だけでも考察の仕方が異なる。本日は「哲学カフェはどうあるべきか」とか「哲学カフェは現状こうだが、このようなものになってほしい」というまだ無いけれど未来について語るということも可能であったかなと思った。
    (2)哲学カフェの真っ最中に、何度か発言のたびに「今日のテーマは「哲学カフェに人々は何を求めるのか?」ですよね。と確認したり、今日出た意見は△△。。。他にないか?」という質問をする方がいたので驚きました。一つは、本日の問いは問いとして、それを深掘りするための展開の最中にこのような質問をすることが、「脱線」しているときに元に戻す効果があるならともかく、ただ単に柔軟性に欠けているのではないか、深掘りではなくて、一問一答か?とセンター入試かという場面に逆戻りしてしまったのでははと思ったことが一つ。また、この質問は暴力的ではないかと思ったことが二つ。発信する自由はあるし、問う自由もあるが、答える義務がない問いだからです。オープンエンドではなくて、問いを終わらせる問いかだからです。この問いの意味を聞いたら、「質問をしてはいけないのか」と理由を拒否されましたが、なぜこのような問いを立てるのかメタ哲学的な問いを拒否しつつ、情報収集ばかりされても、哲学カフェの流れの話の腰を折ってしまった効果があること、「その他に意見がないか」など尋問レベルでは、哲学カフェで出てくる問いではないからです。創発的に意見を引き出すソクラテスのアイロニーのようなものではなくて、即ぶつ的な問いではないか。自分の意見を言わなくてはいけないわけではないが、意見を聞きにくるだけ座っているだけでも悪くないが、哲学カフェの自己破壊であったかと思う。何が知りたいのか、何がしたいのかなと。この場で安心して何でも言えるということを信頼して哲学カフェが成り立つが、まるで警察の尋問的問いのようなスパイされているような居心地の悪さを感じた。ワイマール民主主義から生まれたナチズムではないが、哲学カフェのルールにただ乗りして、形式上の問う自由をしていたが、そもそも何でそんな質問をするのか?という問いについては回答がなかったため、私は極度に不安になった。知りたいだけなら、沈黙していればよい。これ以上ないのか、など糺される理由がわからない。「掛け合い」ながら、問いと答えが弁証法的に発展すればよいが、一問一答してどうするのだろう?そんな安直なお手軽なことではないが、参加者がファシリテーターとしての発言ができるともっとよくなるのにと思った。