2014/6/21: 暴力とはなんだろうか?:「野望の王国」(雁屋哲原作 由起賢二作画)

漫画de哲学 第三回)

 

伏見 カフェ・ティグレで開催の哲学カフェです。

 

《開催前》

よろしければ、当日の対話で議論してみたい論点や質問してみたい疑問などの提案がありましたら、こちらにお書き込みください。匿名にして当日の配布資料にさせて頂いたり、進行の参考にさせて頂くかもしれません。

 

《開催後》

カフェの最中に言い足りなかったこと、言い損ねたこと、カフェが終わった後から思ったこと、など。もしありましたら、気楽にお書き込み下さい。

 

尚、ポストするには「名前」記入が必須となっていますが、これは本名である必要はありません。

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《ご案内》(ご参考まで)

『美味しんぼ』で知られる雁屋哲さんが原作を書いた『野望の王国』という漫画があります。むしろ「劇画」というべきこの作品は、警察、政治家、暴力団、宗教家らが「暴力」によって日本の覇権を争いあうという破天荒な内容なのですが、作品には、ある主張が一貫して流れています。それは「暴力こそが社会を成り立たせているのではないか?」という主張です。確かに、暴力はよくないと誰もが思っている一方で、私たちの社会では、人に何かを強制したり、力ずくで従わせたりする場面がたびたび存在します。暴力、あるいは「力」抜きの社会や人間関係はありえないのでしょうか?また、もしそうだとしたら、「よい暴力」とそうでないものの区別はあるのでしょうか?そうした問題をみなさんと考えてみたいと思います。最初に必要な資料を配布しますので、漫画を読んでいなくても構いません。ぜひ、お気軽に足をお運びください。

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コメント: 7
  • #7

    (水曜日, 09 7月 2014 03:07)

    山方さま、「安直な同意は無意味」「自明を疑え」など、全く同意します。(不本意かもしれませんが。)

    レビューなので多論併記を心がけ、その上で他人とは違う自分の意見も盛り込んだつもりです。が、その中で、力及ばずアンフェアな記述をしてしまった部分(「赤ちゃんの暴力性について」)があったと思いますので、少し。

    赤ちゃんの事例は後から考えると確かに微妙だと思います。私としては「味をしめる」「支配しようとする」という言葉は犬のしつけマニュアルに書かれているような擬人化の比喩で使っている、といいたいところですが、いささか苦しい。比喩か否かを判定するテストとしては結局、「文字通り、この赤ん坊は私を支配しようとしている」言えるか自分に問うて見るしかない気がします。結果は、文化以外にも、子育ての経験や精神的な疲弊度などによっても左右されると思います。
    統計的に9割くらいの人が「赤ん坊は何歳で犬と同レベルの動物のようなものから利己心と支配欲にまみれた人になる」と考えているかは調べてみたいところです。たぶん司法的な責任能力をもつ年齢よりは格段に低いと思います。「(これは)ボクの(ものだ)!」といえるようになるあたりではないでしょうか。

    補足的な観点にもう一つ、笑い(嗤い)について。
    笑いはしばしば嘲りの嗤いとして暴力性を帯びています。ネットでは小保方さんや野々村議員を『ただ』バカにするための画像や投稿が散見されますが、ああいう「あれはバカにしていいものだ」という空気の充満、『喜々として自らも』(!)石を投げ始める人々には、なんだかゾッとしてしまいます。(というか、私自身、おっちょこっちょい故に道化的なキャラクターを押し付けられることがしばしばあるので、嗤いにはつい身構えてしまいます。)
    同調圧力のような人を屈服させる空気だけではなく、自ら進んでその空気に加担してしまうような空気にも、我々は警戒しなければならないと思います。

    「笑いと嗤い」は一度哲学カフェのテーマにして欲しいです。既出でしょうか?

  • #6

    山方 (火曜日, 08 7月 2014 22:07)

    哲学カフェのレビューを書かれることは大変ですね。感謝と慰労が最優先です。ありがとうございました。お疲れ様です。
    いろいろな方が、レビューのなかで、「一致した」と書かれていたりしますが、私はカフェの最中は大抵「一致していない」か判断保留で、安易な一致は必要ないとも思います。結論がないこと、一致していない点をしっかりみつめ、結論が出ない状態に耐える忍耐力が大事ではないかとも思います。分からないことは分からないままに。
    例えば正当な暴力と不当な暴力を私たちは自明なものとして、共通理解しているのでしょうか。出来ないから、対立や議論がおきるのではないかと思います。参加者どうしでも、哲学カフェの流れの受け止め方や解釈は違うのも当然だと思いますから私の意見です。身体的暴力、精神的暴力、ネグレクト(介護や育児放棄)と暴力のうち、身体的暴力を暴力とすることで一致したでしょうか。暴力は力を行使している現象なのか、暴力は自己目的的なものか、暴力も何かの目的達成手段なのか、脅迫、威嚇、テロは暴力なのか、一致しないまま終わったと思います。
    共通なのは、関心事としてあることかと思います。
    失礼しました。

  • #5

    山方 (火曜日, 08 7月 2014 21:05)

    今さら、のコメントです。
    1990年前後の管理主義教育批判、脱学校論の華やかなときに、親が子どもに、言葉や生活文化を教えることを、根源的暴力とする、子どもイノセント論を大真面目に語る論者がいました。当時有名な批評家でした。バナキュラーだったかイリイチか何かこねくり回していたけど、私には意味不明な論だった。子どもが起こす反社会、非社会的な問題行動は大人や親から受ける暴力への抵抗、反抗、解放のためとして正当化されるという論でした。矛盾のある理論ではあるけれど、教育について批判的に見る上では、一考には値するところがあるのは、親が子どもに「悪魔」という名前をつける是非について社会問題にもなったことなどが、検討されてもよいかもしれません。
    自明なこととして、一笑に付したいときにも、さらにそれを根本的に疑い考えてみるとよいのではと思います。

  • #4

    山方 (火曜日, 08 7月 2014 13:50)

    同調圧力は抽象的なので具体的に言えばよかったかもと思いました。殴ったり刺したり、銃で撃つのが暴力として分かり易いけれど、物理的暴力で人を支配できるのは短時間で、すぐに抵抗や反乱を生み、長期的に安定的に支配したりできず、効率性や実効性が低いと思います。物理的暴力=軍隊を動員する前に、恐怖心や服従心や諦念を持たせれば文化などソフトなものが手段としては望ましい。不服従を口にすれば、非国民のレッテルを貼り、奇人変人扱いならましで、ユダヤ人や朝鮮人へのヘイトスピーチから虐殺まで、民族や国家に凝集させたいときに、不都合な人に、同調圧力や同化で迫り、最後は殺害で排除してしまうまで、連続的か不連続か連なってきたのではないかと思います。職場内のいじめて自殺未遂をした人の相談にのったこともあります。また同調圧力は思想調査のようなことを教員にして、教員を解雇しようとしているようなことにも、当てはまるかもしれません。私としては、バットや刀を振り回すのも危険だけど、思想表現の自由がなければ、生きている意味がなく大変苦しいと思います。生々しい話のつもりではありました。終わった話にフォローしてすみません。

  • #3

    山方 (火曜日, 08 7月 2014 13:26)

    暴力とは何か の報告を読ませていただいた後でのコメントです。
    私が例示した「赤ちゃんの夜泣きは暴力か?」についてですが、真面目な問いではありました。アメリカの昔の育児書には、赤ちゃんの夜泣きは親や大人を支配しようというものであるから、決して抱っこしたりあやしたりミルクを与えたり、かまったりせずに、放っておくべきであり、もしこれひ対応したら、赤ちゃんは味をしめて、夜泣きを繰り返してしまう、と書いてあったと、育児の国際比較の本に書かれていました。他者の反対や抵抗があっても、自身の意思を貫き通す、権力闘争を夜泣きに認めているわけですから、暴力的なもの、或いはテロのようなものに近く捉えているのではないかと思います。日本の育児では、夜泣きがあれば、抱っこしたりあやしたりミルクあげたり。そもそも夫婦別室でもありません。スルーされましたが、存外自明ではないと思います。

  • #2

    山方 (月曜日, 23 6月 2014 18:27)

    続けて
    この『野望の王国』ですが、
    「暴力によって日本の覇権を握ることを争いあう破天荒な内容」と紹介されているのだけど、「日本の覇権」まで行かなくてもいいけれど
    クラスの中の「覇権」あるいは「順位」を争う、いわゆる「学校カースト」とか、会社や役所あるいはボランティア団体、自治団体、宗教団体、仲良しグループ、ママ友グループ、なども含めて凡そ組織の中での覇権争いくらいならば、よく見かけることと思います。案外破天荒ともいえないかもしれません。日本を支配までいかなくても、尼崎で家族、親戚を精神的に支配をして身内同士を殺害させていた女性(刑務所内で自殺した?)の事件が生々しく伝えているように、狭い世界でも、ドメスティックバイオレンスもそうですがあるかもしれません。世界はすべて暴力の論理で動いているとは思いませんが、暴力はもっと身近にあるものもあるかなと。
    漫画は他人事として、別世界のことととして、笑ったりエンターテインメントとして楽しめもしますが、力というものの怖さ、飼い慣らし方、つきあい方についてリアリズム的な話もできたのかもしれないと思います。それも一つの哲学カフェかなと。

  • #1

    山方 (日曜日, 22 6月 2014 07:53)

    昨日は、お疲れ様でした。
    あの後、暴力について、フト思い出したのが、「デモはテロ」発言です。テロは恐怖によって相手を支配することで、誘拐や脅迫など、力が弱い側が強い相手に自分たちの意志を押し付ける行為で、容認できるものではありません。テロは暴力か?デモは暴力か?
    争いごとの嫌いな人が多い比較的に大人しい現代の日本人は、暴力をあらためて考える意義があると思いました。
    また、いじめは暴力とどんな関係があるのでしょうか?
    また、ヘイトスピーチは暴力でしょうか?
    インターネットでの、炎上や匿名による誹謗中傷で、韓国の女優さんが自殺する事件がありました。モンスタークレイマーでなくても、ネット上での評価は企業の盛衰にも影響があります。
    風評被害も、速く広くなりました。
    暴力を広く解釈し過ぎかもしれませんが、論点はいろいろあったなあと後知恵で思います。考え続けるにも頭が働く限界があります。短い時間で、腹八分目、頭八部目くらい満腹でないくらいが良かったですね。