2014/8/23: 先生とは何をする人か?

名古屋 伏見、 カフェティグレ で開催の哲学カフェです。

 

《開催前》

よろしければ、当日の対話で議論してみたい論点や質問してみたい疑問などの提案がありましたら、こちらにお書き込みください。匿名にして当日の配布資料にさせて頂いたり、進行の参考にさせて頂くかもしれません。

 

《開催後》

カフェの最中に言い足りなかったこと、言い損ねたこと、カフェが終わった後から思ったこと、など。もしありましたら、気楽にお書き込み下さい。

 

ポストするには「名前」記入が必須となっていますが、これは本名である必要はありません。

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《ご案内》(ご参考まで)

「暗殺教室」は、ある進学校の落ちこぼれクラスを舞台にした、生徒たち(=殺し
屋)と先生(=標的)の物語です。暗殺対象の怪物「殺せんせー(=殺せない先生)」は、自分を殺しにかかる生徒たちに、日々いろいろなことを教えています。
この漫画が私たちに伝えようとしている事柄とはどういうものでしょうか?「先生が
自信をなくしている」とも指摘されるいま、みなさんと「先生」とはどういう存在なのか、考えてみたいと思います。

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コメント: 1
  • #1

    山方 (月曜日, 18 8月 2014 04:19)

    『暗殺教室』第1巻しか読んだことはありません。その舞台の設定には最初は驚いたけれど、しかしある意味で、教育とは教師を殺すということである、ということを日々実感しているので違和感は小さかったです。
    教育観、教師観によって、教育目的、方法、教師の役割が異なるものかなと。
    教えられるものより先に生まれた先生が知識や経験があり、先人の知見や文化遺産を真似る=学ぶ側に問いを立て、その正解や答は教師が持っているという教育/教師観が前提であれば、教師は知的に絶対的権威があり、知識を一方的に伝授する、出来るということになる。
    知識を伝えられても、行動に結びつかせることの難しさの譬えとして、馬を川まで連れて歩かせることは出来ても、馬に川の水を飲ませることは出来ないというものがある。さて実際には馬=子どもにニンジンを鼻先にぶら下げたり鞭で打ち、塩や苦いものを舐めさせ水を飲ませてないか。
    哲学とは、ソクラテスが伝授者たる先生に無知を告白させる対話から始まったとするならば、ソクラテスは先生を否定する=殺す暗殺者だったと解釈すれば「暗殺」行為ではなかろうか。
    生徒や子どもは、教師を親を殺して、その屍を越えて自立し、自己を確立させるものという考えとも近い別の教育観とも被る。
    現実に目を向ければ、教員の地位も権威も下がり、「お前はもう既に死んでいる」と北斗の拳のように、対等かそれ以下かであったり、インターネットで検索すれば何でも解る擬似万能感というか、学級崩壊、教員も生徒も崩壊状態かもしれない。
    差別や格差などを固定、拡大させる残酷な選別システムにもなる学校で、勝ち組になるために信じてもいない教育・学校で、自分が傷つきたくない優しい教師と生徒が生温く馴れ合っているともとれる。
    行き詰ったと切羽詰まった感覚は、学校や社会の残酷さ、真剣勝負の格闘技としてのロマン的な教育という神話の再建という賭けをこの漫画は「暗殺」と身も蓋もない表現にエスカレートしたのか。
    哲学カフェは互いに互いの意見を否定し暗殺しあっている楽しいバトルゲームの会ともいえる。
    NHKの「哲子の部屋」なる哲学エンターテイメント番組で、「哲学とは新しい概念を作ることである」とドゥルーズの言葉を紹介していた。ソクラテスは若者を唆しアテネを破壊する=暗殺者のように告発され刑死したが、知を愛し魂への配慮を行う人の再生の産婆術を施した教師てしても評価される。
    哲学カフェは、暗殺教室プラス産婦人科になればいいなと感想を持ちました。
    非論理的超長文失礼。