■ 日 時: 2016年2月27日(土) 10:00~11:30
場 所: カフェティグレ伏見店
(名古屋市中区錦1丁目10-11、ユーキホテル1階)
地下鉄「伏見駅」10番出口より徒歩1分
テーマ: 家族とはなにか?
進 行: 三浦隆宏(カフェフィロ)
参加費: 飲食代実費(400円~)
定 員: 15名
申 込: 不要 (ですが、なるべく事前にご予約ください。定員に達し次第、申込みを締切ります。)
問合せ/申込先:staff.nagoya*cafephilo.jp (*を@に要変換)
備考:
① 100円程度のご寄付をお願いしています。(強制ではありません。詳しくはこちらを)
② 写真撮影と対話の録音をさせて頂いております。NGの方はお申し出ください。
《ご案内》
『家族という病』や『家族幻想』といった、「家族」を問う本を最近よく目にします。生殖技術の進展は、レズビアン・カップルやシングル女性と子どもといった新しい「家族」を可能にするいっぽうで、家族をつくらない単身者も増え続けています。
現代において家族とはなんなのか、みんなで一緒に考えてみませんか?
報告です。本日のカフェティグレでの哲学カフェ、「家族とはなにか」について15名の参加者の方々と考えました。家族と家庭との違いの検討から始まり、家族を人類史的な観点から眺めたり、外にある社会と内にある家族との主従関係の逆転や、理想的な家族像に振り回される現在の私たちが指摘されたりと
— 哲学カフェ@名古屋 (@cafephilo758) 2016年2月27日
家族を考えるうえでの比較対象となった「家庭」については、引き続き来月の書評カフェのテーマである「夫婦」において、再度検討していきたいと思います。
— 哲学カフェ@名古屋 (@cafephilo758) 2016年2月27日
以下の掲示板は次のようにご利用ください。
《開催前》
よろしければ、当日の対話で議論してみたい論点や質問してみたい疑問などの提案がありましたら、こちらにお書き込みください。匿名にして当日の配布資料にさせて頂いたり、進行の参考にさせて頂くかもしれません。
《開催後》
カフェの最中に言い足りなかったこと、言い損ねたこと、カフェが終わった後から思ったこと、など。もしありましたら、気楽にお書き込み下さい。
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鞠水 (日曜日, 28 2月 2016 12:05)
12歳の頃
全身麻酔で消えゆく意識のなか聞こえたのは
「この子のお母さん泣いていたね」考えてもいなかった言葉だった
看護婦たちは私にまだ意識があることを知らなかったのだと思う。
先天性血管腫
100枚を超えるレントゲンを撮ったのだろうと記憶している。
原因が特定できないために切開して確認することになった。
筋肉の中に入り込んだ血管腫の除去は再手術が必要だった。
「良性だったからもう大丈夫」
中学生の私にはよくわからない言葉だった。
20代の頃、同じ足にできた血豆のような痣はいつのまにか消えていた。
数年後、不注意で挟んでできたそっくりな血豆を見た外科医の顔色から、
それがかなり危険なものだったことは推測できた。
笑っていた顔が蒼白になり
鋭い目でいつからあるのかと聞いていた。
自然にできたものなら精密検査をするつもりだったらしい。
他人の手にできた血豆をめぐる話に私は加われなかった。
手術の後に両親と医師がどんな話をしたのか
聞くべきなのかも判断を先送りにしている。
母親は両親の名前も顔も知らない。
父親は家の都合で乳飲み子の頃に養子に出され親元を離れた
私の本当の祖母が家から少し離れたところで独り暮らしていたことを
死後の噂話で私たち家族は知った。
もしかしたらすれ違ったことがあったのかもしれないが顔すら知らない。
血の繋がった家族との暮らしを知らない両親は理想の家族を模索していたのだと思う。
息子の膝が曲がらなくなり
原因が癌の可能性があると聞いてどれほどの衝撃を感じていたのか
話のなかゆらぐ感情から透けて見え今でも触れるのは憚られる。
結婚に縁のなかった私にはその重さを想像することすらできていない。
家族とは本当に迷惑をかけてもよい間柄なのだろうか?